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第20回:本は一冊もないけれど「場」が存在する本屋
 雑誌などでよく見かける「○○さんが選んだ、○○のための○冊」という企画がある。著名人がそれぞれ、テーマに沿って本を選ぶ。いわゆるブックガイドとかブックリストとかいうものだが、つい最近ぼくは、一般の人からこれを収集する「ブック・リスト・マニア」というプロジェクトをはじめた。

 この連載の第2回(もう2年近くも前になる)でも書いたけれど、まず、人がどういう本を読んでいるかということは、とても気になるものだ。電車の中で向かいの席の人が読んでいる本のタイトルが気になって目を凝らしたり、飲み会の席で隣の人につい「最近何か面白い本読みました?」と聞いたりするのはぼくだけではないだろう。そしてさらにリストとなると、興味はそれだけではない。

 音楽好きのひとならば大抵誰しもが、一度はコンピレーション作りにハマった時期があるだろう。DJということばがこれだけ浸透するよりずっと前から、「選曲」という行為に伴う快楽はたくさんのひとが自覚していた。自分の持ち駒を最大限に駆使し、もっとも絶妙だと思う選曲と曲順で作ったテープやCDを、繰り返し聴いたり人にプレゼントしたりすること。「選曲」に伴う快楽というのは、言い換えれば「編集者」になることの快楽だ。

 ブックリストも同じである。回収しようとお願いすると、大抵は「いいよー」と軽いノリで引き受けて紙とペンに向かってくれるのだが、いざ始めるとそんなにさらっと書けるものではないことに気づく。特にテーマを設定するとなると(テーマを「好きな本」としない限り)ただ好きな本を羅列するのではなく、いかにそれを「やるなあ」「うまいなあ」「いい感じだなあ」と思わせるような、気の利いたものに「編集」できるかということに挑戦しはじめてしまう。本好きであればあるほど、ついこだわるようになる。そして、ただ本のタイトルを羅列しただけのその文字列は、ただ「人が読んでいる本が気になる」ということを越えて、圧倒的に面白い。

 ぼくがこれを始めたのには2つ理由がある。ひとつめは、必ずしも著名人のリストでなくとも面白い、むしろ一般人のリストのほうが面白いとさえ感じたこと。そしてもうひとつは、にもかかわらず、一般の人がリストを投稿できるアマゾンの「リストマニア」という機能によって書かれたリストが面白くない、ということだ。

 後者を面白くないと感じるのは、おそらくその多くがあまりに「編集」されていないからである。中にはものすごくきちんと練っている人もいるが、大抵はある種のブログやSNS上の日記が持つつまらなさに近い、たとえば「ただアマゾンから欲しい本をピックアップしてリスト化してみました」というような、匿名性に守られた垂れ流し感がある。責任を持って書かれた緊張感のようなものが欠けているのだ。だからぼくの「ブック・リスト・マニア」では、必ず本名と職業を記入してもらい、その人をリアルな存在として特定し、大抵はその場で公開する。同時に他の媒体への掲載許可も得る。いわば「気合が入る」ようにしてあるのだ。

 手前味噌で恐縮だけれど、この「ブック・リスト・マニア」は、恵比寿のククイカフェ(※1)というカフェで行われた美術展(※2)への出品を経て、現在はCET06(※3)というアートイベント内の美術展に少しヴァージョンアップして巡回している。バースペースに設置されたこの作品は、中央に「amazon.co.jp」に接続されたPCが一台設置されており、その場に訪れた人にリストを書いてもらうと同時に壁に貼り出していく、という参加型のインスタレーションだ。壁に貼り出されたリストは、本好きにとっては絶好の酒の肴だ。それを見ながらああだこうだと話をめぐらせ、そして、壁のリストに気になる本があればそれを検索し、その場で購入することができる。いわばこれは本屋なのだ。本は一冊もないけれど「場」が存在する本屋。ブックリストにまつわるこのプロジェクトはしばらく、続けようと思っている。

※1:ククイカフェ
http://www.kukuicafe.jp

※2:飯田竜太・内沼晋太郎・施井泰平展「森」
http://mori3n.exblog.jp

※3:CET06美術展「フラットな世界以降の新しい美術の流れ」
http://www.centraleasttokyo.com/06/
http://www.centraleasttokyo.com/06/archives/000038.html
# by uchnm | 2006-11-25 00:00 | 本と本屋
第19回:あるテーマを特集した古雑誌を集めてみる
 ある企業の主催するイベント(※1)の、空間デザインのほんの一部をプロデュースする、という仕事をいただいた。このメルマガの発行日当日に、あなたにこの文章を読んでいただいているのであれば、ちょうど明日行われるイベントだ。「空間デザイン」などと言うとなんだか聞こえがいいが、ぼくが請けた仕事は本当に「ほんの一部」にすぎない。その空間に並べる古雑誌のセレクト、である。

 さらにそれらの古雑誌は、閲覧することすらできない。その空間を訪れた人にぼくがプレゼンテーションできるのは、それらセレクトした古雑誌の背表紙の部分のみである。背表紙の並び具合で、いかに雰囲気を作るか、そしていかに語るか。それがぼくの仕事ということになった。

 なんでそんなことになったのかもう少し詳しく説明すると、古雑誌の収納保存を兼ねたスツールをデザインした方々がいて(※2)、そのスツールがその会場に設置される、というわけなのだ。スツールになった古雑誌は重ねて束ねられているから、中身を閲覧することはできないというわけである。そこでぼくはイベントの内容に合わせて、それぞれのスツールに異なるテーマを設定し、そのテーマを特集していてかつ背表紙のある雑誌を古本屋で探しまくるという、かつてない不思議な仕事をすることになったのだ。

 例えばひとつのスツールのテーマは、「いつか見た未来」とした。発行当時の技術を踏まえ、未来はきっとこうなるだろう、という何らかの予測を立てているような特集の雑誌のみを集めたのである。クライアントがPCやインターネット関連の企業であることもあり、特にそれらに関する特集を集めたのだが、それらの場合最も面白いのは10年ちょっと前、93~96年あたりのものだ。『スタジオボイス』などのサブカルチャー誌はもちろん『太陽』などの総合誌から『GQ』などの男性誌まで、「デジタル時代の著作権」から「マルチメディア革命に乗り遅れるな!」まで、それぞれの立場で、ちょうど今起こっているようなことが予言されていたり、外れていたりする。今からは考えられないような、当時の技術やサービスに思いを馳せるのも楽しい。

 実際は、こういった特定のテーマで揃えたスツールだけではなく、すでに廃刊になってしまった特定の雑誌を揃えたスツールも作った。しかしだいぶ前から言われていることだけれど、近年、特定の雑誌を毎号購読するというよりも、自分の興味に合う特集の号が出たらそれを買う、という買い方が主流になっている。しかもその傾向はどんどん強まってきていると聞く。ぼく自身の場合でもそうで、たいていどんな雑誌でも「本」特集ならばかなりの確率で買っているため、気づけば「読書」とか「本屋」とか「ブックリスト」とか「~の○○冊!」といったタイトルの雑誌が過去何年分も、何十冊も棚に並んでいる。

 こういう風にひとつのテーマで、特集ベースで雑誌がセレクトされているという状態は、ぼくのようなある仕事や趣味に基づいて集めている人の本棚を目にする場合を除いて、少なくともふつうの本屋ではあまり見かけるものではない。もちろん特定のジャンルに強い古本屋が意識的に関連するテーマを集めていることはあるが、それでも女性ファッション誌から文芸誌まで幅広く収集するというのは、ちょっとした古本屋よりもむしろ、オタクな個人が得意とするところのように思う。

 そしてそうやって集められた雑誌は、自分が仕事でやっておいて言うのもなんだけれど、はっきり言ってとても面白い。雑誌は時代を映す鏡とはよく言ったもので、発行された時期が違えばテーマが同じでも内容はまったく違う。また、時期が同じでも、雑誌のターゲット層が違えばやっぱり大きく違ってくる。それらを見比べるだけで、そのテーマに対して自分が持っていた視野がものすごく広くなる。そしてきっと、次の時代のことも、まず間違いなく見通しやすくなるだろう。もし興味があれば、ぜひあなたの古本屋めぐりの指針に加えてみて欲しい。

 ところでぼく自身はというと、実は逆に、雑誌の定期購読にハマりそうになっている。特定の同じ雑誌を買うか、いろんな雑誌を興味のある特集ごと買うか。これはある種、作り手への愛に関わる問題でもあると思っているのだけれど、それはまた、別の機会に。


※1:REMIX Tokyo (by Microsoft)
http://www.event-registration.jp/events/remix06/

※2:gift_lab
http://www.giftlab.jp/
# by uchnm | 2006-10-25 10:00 | 本と本屋
第18回:幸せな読書のためのホテル
 ホテルに泊まると、部屋の引き出しには大抵、一冊の聖書が入っている。そして、ホテルの利用規約とかいろいろな施設の案内とか、周辺の観光情報とか、そんなものが挟まっているファイルのようなものが、まあ大抵、あることが多い。あとその他に、本らしきものは、見当たらないのが普通だ。

 ところで栗田有起さんの作品に、『オテルモル』という小説がある。舞台は「幸せな眠りのためのホテル」。誰でもそれまで体験したことがないくらいに気持ちよく眠ることができる不思議なホテル(正確には「オテル」)で、快眠を求めて日々会員の常連客がやってくる。そのホテルでスタッフをすることになった主人公の、業務の日々を描いた作品だ。

 この「幸せな眠りのためのホテル」は、それなりに実現可能かもしれない。すべての環境を眠りのためだけに、ひたすら最高級のものに仕立て上げた客室――ひょっとしたら既にどこかで試みているホテルがあるかもしれないし、それを想像するだけでちょっと眠くなってきてしまうけれど、ところでそれならば「幸せな読書のためのホテル」というのはどうだろう。

 旅に出るときには必ず本を持っていく、という人はたくさんいるだろう。ぼくもその一人で、一人旅の場合は、本を読むために旅に出ているような気分になってくるくらい、その本と自分の旅とがシンクロすることが多い。選ぶのは、できれば文庫本がいい。長い旅の場合はすぐに読み終わってしまわないように、小説ではなく評論や思想書の類を持っていく。実際ぼくの場合は、学生時代に3週間かけて青春18きっぷで国内をフラフラしたとき、持っていったスーザン・ソンタグの『反解釈』を読み切るのにちょうどいい長さだった。しかし必ずしも、いつもそう上手くいくとは限らない。荷物ができるだけ少ないほうがいいから、途中で読むものがなくなってしまうことも多い。

 旅先で一番長く本を読んでいるのは、移動中の電車などの乗り物か、夜のホテルだ。それなのに、ホテルの部屋には、聖書とファイルしかない。たとえばそこに、そのホテルのブランドと顧客層に合った、よく選ばれた良書が詰まった、大きな本棚があったらどうだろう。旅先で一人で過ごす、長い夜。読み終わった文庫本の次に、どれを読もう。部屋に用意するのだから、コスト的に少し高価な部屋になるだろう。どうせならあるいはいっそ備品のタオルのような感覚で、読みかけの本を持ち帰れるサービスがあってもいい。あるいは部屋ではなくロビーのような場所や、もしくは専用の図書室を作って、そこから自由に持ち出した本を、自由に、部屋で読む。読みかけて続きが気になったら、冷蔵庫のドリンクのように、あと清算で買うことができてもいい。

 実際「ホテル 図書室」で検索すると、いくつものホテルがヒットする。それらは、だいたい海外のリゾートホテルだ。そこがさらに、小説の世界のような「幸せな読書のためのホテル」であったなら。ちょうどよい高さと硬さの椅子と机、いくら寝転がって読んでも疲れないベッド。風と、香り。快適なのに、なぜだか眠くはならない不思議な緊張感。そして、なぜだか読みたい本ばかり並んでいる本棚。本の世界にどんどんと引き込まれて、気づくといつしか時間を忘れて何冊も続けて読み耽ってしまうような、そんなホテルがもしあったなら――なんて素敵な妄想だろう。

 どこまでできるかはわからないけれど、実はいま、インテリア会社とホテルのコンサルタントと組んで、「本棚のある客室」「本のあるロビー」を実際に計画中である。アパレル向けの本棚作りも、だいぶ面白くなってきた、その次。本のあるところ/あるべきところはまだまだ、いくらでもある。どこへでも出て行こうじゃないか。
# by uchnm | 2006-09-26 12:06 | 本と本屋
第十七回:読みとばし、読みためて、ながめる
いま一緒に仕事をしている某アパレルショップのディレクターは2児の母でもあるのだけれど、そのディレクターが今日、神保町で打ち合わせをしているときに「子供のうちに、本を読みとばせるようにならなければいけない」と言った。

 本を読むぼくらはいつのまにか、いま読んでいる部分がわからなかったりつまらなかったりしても、少し忍耐しようという気持ちが働く。それはたとえば「自分が読みたいと思って選んだ本なのだから、もうちょっとがんばって読めばこの後面白くなるかもしれない」という期待だったりする。受動的に入ってくる映像や音楽などと違い、文章は能動的に読まなければならない。それにも関わらずそういった期待が持てるようになるまでには、ちょっとした訓練のようなものが必要だ。<読みはじめる→面白くない→読みとばしてでも読み続ける→だんだん面白くなる>という経験を何度か経ているからこそ、「読みとばしてでも読み続ける」ということに能動的になることができる。「本を読みとばせるようになる」とはある意味、「本の面白さを信じられるようになる」ということなのだ。

 「本が売れない」というとき、その理由のひとつ(しかも、かなり大きな)にはこの「本の面白さが信じられる」人が年々少なくなっているから、というのが挙げられるだろう。よく「本は学生のうちに読んでおけ」というけれど、もっと小さなうちにこの「本を読み飛ばせる」という技術を身につけておかないとむずかしい。逆に、子供のうちに「読みとばせる」つまり「本の面白さを信じられる」ようになっていた人は、たいてい学生時代に本を「読みためる」ことができている。昔はいわゆる「これは教養として誰もが読むべき基本図書だ」というのがあったというが(ぼくの世代は既にそういうプレッシャーが薄くなってきたころに学生をしている)、そういう本をきちんと読んでいるひとはたいてい学生時代に「読みためる」ことができた人だ。

 と、ここまで考えて、そういえばとても尊敬している、とある50代の読書家の男性が「ぼくらくらいになるともうだいぶ読んでしまったから、本はあとはながめたりしているだけでいいんです」と言っていたのを思い出した。彼は間違いなく学生時代「読みためる」ことをしてきた人だけれど、その彼が今度は「ながめる」ことをするのだというからおもしろい。

 最近アパレル向けの本のセレクトの仕事が多くなっていて、その話をすると「写真集とかアートブックみたいなものを並べるのですか」と言われることが多いのだけれど、ぼくの場合は必ずしもそうではない。むしろ活字の本の内容やタイトルを吟味して、いかにお店のコンセプトを可視化していくかというのがメインにあって、それと見た目の美しさとのバランスをとりながら棚を編集していくかということが、一番大切だという気がしている。彼の話したような考え方が「本の面白さを信じられる」人のたどる道なのだとしたら、内容で選んだ本と美しさで選んだ本、すなわち「読みためる」べき本と「ながめる」ための本の両方がバランスよくあるというのは、本屋のあるべき姿としてもあながち悪くなさそうだ。

 子供のうちに読みとばし、学生のうちに読みためて、大人になったらながめる――しかしこれはもちろん、ひとつのスタイルでしかない。たとえば子供のうちに読みとばすことを学べなくて、活字が苦手なまま大きくなった学生でも、堂々と「本はあまり読みませんが、ながめていることは好きです」と言っていいはずではないだろうか。それがなんだか言いにくい気がするのは、一部の親や年長者が自分のとってきたひとつのスタイルを強要してしまっているからだ。だから、余計本が嫌いになってしまったりする。そうではなく、いろんな場所でいろんなアプローチで、いろんな読み方や楽しみ方を提示することで、それぞれ自分なりのスタイルで「本の面白さを信じられるようになる」ように導くこと。「本が売れない」のならばなおさら、それこそがぼくら本屋の本当の仕事なのだと思う。本の面白がり方は、決してひとつじゃない。
# by uchnm | 2006-08-25 00:00 | 本と本屋
第十六回:本の置き場
 ぼくは千代田区三番町にあるシェアオフィス(※1)に入居して日々の仕事をしているのだけれど、今日仕事場に来てみると、シェア仲間のKくんが大きなキャリーケースを持ち込んで、本棚の本を入れ替えていた。ぼくたちは4月の頭に入居してきたばかりなので、まだそこに本を入れてから2ヶ月も経っていない。なぜ今そんな大幅な入れ替えをしているのかと聞いてみると、彼の本には仕事場用と部屋用があり、それぞれに1軍と2軍に分かれている(つまり全部で大きく4つの区分がある)のだという。当然その中の本はさらに内容別に分けられているのだけれど、昨日家の本棚を見ていたら、ここに入居してから仕事のスタンスが変化してきており、その中に大幅な移動(異動?)が必要なことに気がついたのだというのだ。

 彼はフリーランスで、仕事の内容と自分の興味とが比較的近いため、いわゆる仕事の本とそうでない本という境界はそんなに明確なものではないはずである。だからこそこういう大幅な「異動」が起こりうるわけだが、彼の話を聞いて、本が生活に寄り添っている人であればあるほど、色々な本の置き場を持ちそれらを使い分けているのではないか、と思った。

 たとえば彼の場合、一番優先度の高い「自分が辿ってきた道を示している」本は、いつも細かく参照するようなものではないが、タイトルを眺めて自分の立ち居地を確認するために、常にデスク横の一番いい場所に置いてある(おそらくこれが「仕事場」の「1軍」であるはずだ)。一方、たとえば哲学書などは、部屋のベッドの横の、寝転がって横を向いたときにちょうど自分の目の前に来る位置に並べてあり、眠る前にパラパラと捲ったりするのだという(これは「部屋」の「1軍」なのだと思う)。

 ぼくの場合であれば、一人暮らしをしていたときは、軽い雑誌やフリーペーパーの類はトイレに置いていた。いま、大抵の本は自分の部屋にあるが、小説は枕もとの小さな棚に入っていて、読み途中のものと読了済みのものに分けている。壁沿いにはその他の本がジャンル別に整理されて入っていて、仕事で必要になるとその都度引っ張り出し、オフィスに持っていって、机の上に積んでおく。机の後ろの棚には、よく参照する資料を中心にしつつ、なんだかかもって帰りそびれてしまった過去の資料やひとに借りている本など、節操なく置いてある。もちろん鞄の中には、読み途中の本が2~3冊入っている……といった具合だ。

 ところで考えてみれば、用途によって置き場所が決まっていて、生活に溶け込んでいるモノというのは、何も本だけではない。むしろ大抵のモノはそうで、文房具から家電まで、用途と置き場所が連動していない例を探すほうが難しい。それらと比べると、いわゆる大きな本棚があって所持している全ての本をそこに詰めるという発想は、何か不自然な気さえしてくる。本という商品の幅の広さから考えれば、もうちょっと自由に、生活空間の至るところに点在していてもいいようなものだろう。そういう意味ではぼく自身も、まだまだ「本棚に詰める発想」から抜け出せていないと感じる。

 たとえばぼくの場合、机の上やら、日々使っている複数のバッグやジャケットのポケットやら、手帳や読みかけの本の間やらに、同じボールペンがそれぞれ入っている。おそらく日によっては、そのボールペンを十本近く持っている時があるだろう。ぼくにとってボールペンはそのくらい、いつどこからでも出てきて欲しいものなのだ(ちなみにこのスタイルをとって以来、ボールペンを紛失する本数はむしろ減った)。ボールペンはぼくの生活のいたるところに点在し、完全に密着している。もちろんボールペンと本とではだいぶ違うが、とはいえ本がそれくらい生活に溶け込んだら、ちょっと素敵ではないだろうか。

 そういえばちょっとしたインテリアショップでは大抵、机の上に花瓶が置いてあったり、ソファの上にクッションが置いてあったりする。このときこのショップでは「花瓶」や「クッション」という商品それ自体に加え、「机の上」や「ソファの上」という置き場の提案まで含めて販売しているということができるだろう。もちろんこれは商品の単価が高いからできるわけで、本を置き場ごとさりげなく提案するような書店(机の上に置く本、寝室に置く本、食卓に置く本、トイレに置く本……という具合に)を単体で想定するのは難しいけれど、いっそのこと書店+インテリアショップのようなお店(※2)をつくってしまえば、それもあながち実現不可能ではないかもしれない。


※1【co-lab】
http://www.co-lab.jp/

※2:書店+インテリアショップという形式には「finerefine」があるが、基本的には書籍のコーナーが別途設けられていて、そこの本棚に大半の本が詰められている。
【finerefine】
http://finerefine.jp/
# by uchnm | 2006-05-25 16:22 | 本と本屋


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「ぼくたちが本と出会うときのこと」は、ブックピックオーケストラ発起人、numabooks代表の内沼晋太郎が、「[本]のメルマガ」で書かせていただいている月一回の連載です。
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