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第46回(最終回):ぼくたちが本と出会うときのこと
 なにしろこれで終わりにしようというのだ。せっかくならば何かまとめらしく、気の利いたことを書かなければいけないと思って、とりあえず連載名をタイトルに冠してみるところからはじめてみたけれど、さっきから何度も書いては消してを繰り返すだけで、どんどん時間が過ぎていく。この連載の間にぼくは24歳から28歳になり来月には29歳になろうとしているのに、ずっと「いったい今月は何について書こう」と毎月締切が近くなるたびに考えてなんとかひねり出すということを繰り返している有様なのだから、時間が経過するからといって人は必ずしも成長するものではないようだ。

 一方で本をめぐる環境がこの4年半でどれだけ変わったかということについては、意見がわかれるところだろう。たとえば最近発売されたばかりの小田光雄氏の『出版状況クロニクル』を読めば、この2年弱の間だけをとってみても、とても大きな変化が起こっていると言える。一方で業界の構造それ自体に思いを馳せてみれば、相変わらず本屋には、どこでも買えるものが大量に送られてきて、低い利益率にもかかわらずどこでも同じ値段で売らなければいけないし、出版社はとにかく新しいものを出し続けなければ倒産するというプレッシャーのもとで大量のタイトルを世に送り出し、それでもどんどん倒産の憂き目にあっているから、ほぼまったく変化なしという見方もできる。

 でも少なくとも「本と出会う」ための手段は、ここ数年でだいぶ増え、定着してきたといえるだろう。mixiやtwitterなどのコミュニケーションツールや、RSSリーダーなど情報収集ツールの普及によって、自分の選んだ人のフィルタを通った本との出会いの質はどんどん洗練されてきている。Amazonの「この商品を買った人はこんな商品も買っています」も、処理こそ機械的ではあるがその先にいるのは実際の読者だから、統計データが蓄積されシステムの精度が向上するに連れて、届くメールがたまにおそろしく的を得るようになってきている。また一方でリアルスペースにおいても、新しいタイプの書店や、書店ではないけれど本を扱う小売店、その他様々な本と人とが出会うための仕掛けがある場所がたくさん生まれている。この4年半の間に、ぼく自身もだいぶそういったものを手がけ、紹介させていただいてきた。

 多くの人が気がついているように、新刊本が流通する量はおそらく減るだろう。新しいメディアが生まれれば、古いメディアのある部分が取って代わられるのは当然であり、そのことについてはこれまで何度も書いてきた。これも最近発売されたばかりの小林弘人氏の『新世紀メディア論』が指摘している通り、これまで「出版」と呼ばれていた「本を編集して書店で流通させること」が、イコール「出版」ではなくなろうとしている。だからこそ、そういう時代に本というメディアが担うべき役割と、本以外のメディアに受け渡すべき役割の両方について考えていなければいけない。本を制作したり流通させたり販売させたりする側がその変化にきちんと対応していかなければ、本来起こるはずのない自滅を引き起こすことになりかねないからだ。

 本の担う役割が少しずつ変化しその流通量が減っていくとき、本を購入して読む人と直接つながっている書店という場所のもつ役割は、特に大きく変化することになるだろう。そしてそのとき、前述した「どこでも買えるものが大量に送られてきて、低い利益率にもかかわらずどこでも同じ値段で売らなければいけない」という構造にもまた、変化が訪れているはずだ。あるいは仮にそのシステムがそのままであったとしても、残っていく書店が、これまでほとんど追及しなくても済んでしまった「小売店としての魅力」をいち早く高めることができたところであろうことは、おそらくまず間違いないだろうと思う。

 たとえばいまアパレルには大不況が訪れているが、それでも原宿の「H&M」「FOREVER21」界隈ではものすごい数の人が行列をなしているし、日本のいたるところで「ユニクロ」に多くのお金が落とされている。これを単に「安くてカッコいい服を売っているから」と片付けるようでは思考停止だ。そこをしつこく「なぜそれが『H&M』や『ユニクロ』にできて他にはできなかったのか」「なぜ書店には行列ができないのか」「なぜ1,900円のTシャツは安いと感じるのに1,900円の単行本は高いと感じるのか」などと考え、かつそこにヒントやアイデアを見つけたら「でもそんなこと書店にはできない」と簡単にあきらめずに、何かエッセンスだけでも「小売店としての書店の魅力」にできないかと考えつづけること。残っていくのはおそらくそういうところだろうし、そのときその書店はいわゆる旧来の書店であるとは限らない。いま洋服を売っているのがいわゆるテイラーでもブティックでもないように、歴史をたどれば、洋服はなくならなくとも洋服を売るというビジネスは変化する、というのは自明だ。

 定価販売をしなければいけない以上、あるいは自由価格であれ利益率に大幅な変化が訪れない以上、書店が「小売店としての魅力」を追求するための、大きな方向性は2つしかない。1つ目は、同じ本でもその店で買いたくなるように演出すること。2つ目は、本以外の商品も平行して取り扱うことで、新たな利益構造をもった業態を目指すことだ。前者にも後者にも、まだまだ試されていないあらゆる可能性があり得るし、そのためのヒントは他の小売業の中にたくさん転がっている。ポイントは、それを検討し実行することに、いままでかけてこなかったコストをかける決断ができるかどうかなのではないかと思う。もちろんそれは、本をつくる側にも流通させる側にも、同様にいえることだ。またそれと同時に、本にまつわる全く別の新しい仕事も、まだまだ増えないとも限らない。この連載は終わるけれど、ぼく自身はむしろこれから、より積極的に活動していくつもりだ。

 とりあえず過去の原稿はブログ形式でアーカイブしてあるので(※1)、これからまた何かどこかで書くことがあるとすれば、そこでまたお知らせします。長い間、ありがとうございました。またどこかでお会いしましょう。
# by uchnm | 2009-05-25 00:00
第45回:そもそも「本」とは何のことなのか
 宇多田ヒカルの『点』と『線』いう本が二冊同時に発売になったけれど、ところでぼくらは小学生のころに、算数で「点」が大きさをもたないことや、「線」が太さを持たないことなどを習った。実際の「点」や「線」はそうではないから、最初はちょっと不思議に思ったようにうっすら記憶しているけれど、やっていくうちに当たり前のこととして慣れてしまったのだったと思う。そして中学、高校とすすみ、その科目がなぜだか数学という風に名前が変わり、同時に他の理系科目に触れるようになると、そこで行われた「点」と「線」についてのルール付けがあくまで「仮定」であり、そしてその「仮定する」ということが「考えを進める」ためにどれだけ必要不可欠かということを、年齢を重ねながらだんだんと知っていくことになる。そしてその数学で仮定する空間について初めてきちんと記し、いまも読み継がれているエウクレイデス(ユークリッド)の『原論』という本は、なんといまから2000年前に書かれた本だ。

 ぼくはいま簡単に、2000年前に書かれた「本」だと書いたけれど、2000年前にエウクレイデスが書いたのはいまぼくたちが知っている「本」とはだいぶ違う。詳しくは本の歴史について書かれた多くの本に譲るけれど、少なくともグーテンベルクの活版印刷技術が生まれたのは15世紀だから、エウクレイデスがいま『原論』を書いてそれを日本の普通の本屋に「これぼくが書いたので売ってください」といってもおそらく売ってもらえない。まず出版社に持っていけば出版してくれるかもしれないが、そうなっている時点で既に「本」というものは、「形態」であると同時に「システム」であるといえる。最近ぼくも自分の本を書いたけれど、いまぼくが「本を書いた」というとき、それはたいてい紙に印刷され綴じられた束が出版社から発売され、そしてそれが取次を経由し書店に並ぶのだということをさす。しかしエウクレイデスの時代にはいまのような紙も印刷技術もないから当然いまの「形態」ではないし、いま日本でいうところの出版社も取次も書店もないからいまの「システム」の中でそれは「本」とは呼ばれない。

 ところで「2000年前に書かれた本」というのはあるけれど、「2000年前に書かれたmixi日記」というのは今のところない。2000年前どころか20年前に書かれたものさえないのだけれど、仮に2025年までmixiがサービスを続けているとするならば、少なくとも「20年以上続いているmixi日記」というのが存在することになる。そして仮に2000年間サービスが続けば、そこには「2000年前に書かれたmixi日記」というのが存在することになり、当然idのかなりの割合は故人であるということになる。たまたまネットサーフィンをしていたり何かを検索したりしていたら、自分の先祖の遺したものを見つけてしまうというような世界だ。そのころにいまインターネットと呼ばれているものが同じ形式を保っているとは到底思えないが、少なくともいま存在すれば「本」でないところの『原論』が「本」と呼ばれるように、「形態」や「システム」などが異なり別の名前で呼ばれている何かを人々が使いこなし、たとえばそういう、先祖が遺した何かが簡単に見つかるような時代を通過することはおそらく間違いない。

 だいぶ未来に話が飛んでしまったけれど、ともあれいまの「形態」や「システム」において存在する「本」は、大雑把にいうとその中身をつくるのにかかった費用と、その外側をつくるのにかかった費用とをもとに、価格が決定されることによって市場の中で商品として成立している。前者は印税や原稿料、ブックデザイン料、イラストがあればそのイラスト料、写真を撮影したならそのカメラマンのギャラというような諸経費で、一方の後者は紙代と印刷費というのが一般的だ。そこで、たとえばこれから出版不況と呼ばれる状況がどんどんと加速して、2025年という近い未来に、本のデジタル化が進んだおかげで、いわゆる現在の「形態」や「システム」を前提として存在する「本」の売上が、いまの10分の1になっていると仮定してみる。そのとき「本」がそのままいつかなくなってしまう可能性があるのは、全てがデジタルに移行していった場合ではなく、むしろデジタル化がスムーズに行えなかった場合だとぼくは思う。

 なぜならそのくらいの未来には端末はおそらく紙と区別がつかないほどに進化しており、そのタイミングまでにデジタル化したコンテンツを販売するノウハウがあり収益をあげることができるようになっていれば、「それでもデータではなく紙の本がいい」という一定の層に対して、ほぼ同じ「形態」「システム」のままで供給することができるかもしれないからだ。デジタルの場合は中身をつくることにしか費用がかかっていないから、その上にプラスでいわゆる「本」もつくろうとした場合そこにかかるのは外側の費用だけであり、仮に部数がいまの10分の1になったとしても価格にそのまま10倍となって跳ね返るようなことは起こり得ない。よって、その段階へと向かっていく変化が漸進的であり、それに対応し続けていくことができれば、取次があって書店があるというシステムもまたボリュームにあった形にシフトしていくことで維持することができる。またリサイズしながらもそういったシステムを維持することができれば、高額になることは承知の上で「このコンテンツは本というメディアにこそふさわしいコンテンツだから、データ化しないで本としてのみ流通させよう」というような試みもまた、行いやすくなる。

 しかしデジタル化がスムーズに行えず、かつ売上はだんだんと下がっていきいつの間にか10分の1になってしまっていたということだとすると、そこで失われた10分の9の売上分は食事かファッションか美容か、あるいは音楽や映画かゲームか分からないが、とにかく本以外のものに消費されたのだということになる。いま「本」の側にあるコンテンツというのは、ただテキストおよび静止画からなるコンテンツであるというだけでなく、自費出版されたものを除いては一定の評価と質に基づいたものであるという前提のもと、きちんと編集されて世の中にリリースされるコンテンツだけれど、それはそういったコンテンツそのものの分量が10分の1になってしまうという危険性も内包している。これは以前トークショーで話題にさせていただいた「本屋から人文書というコーナーがなくなったとき、人文というものもまたなくなってしまうのか」という話とも近い。実際はそうはなり得ないけれど、少なくともビジネスでなくなってしまう危険性がある以上、それをやる人がいなくなっていってしまう可能性は充分にあり得るのだ。

 そういった意味でぼくはデジタル化して楽しまれるべきコンテンツは、それにどんな痛みや一時的な不利益が伴ったとしてもどんどんデジタル化していく必要があると考えている。そしてそれがスムーズに行われるとき、従来の「形態」と「システム」にのっとったいわゆる現在の「本」ではなく、デジタルであろうが紙であろうがそういう「一定の評価と質」と「編集」という前提をもったコンテンツこそをいずれ「本」と呼ぶようにシフトしていくのではないか、と勝手に思っている。そのときエウクレイデスの『原論』はデジタルで配信されても「本」であり、宇多田ヒカルの『線』はブログを書籍化したものだから「本」というよりはむしろそれ自体「ブログ」と呼ばれるほうが近いというようなことなのだけれど、果たしてどうなるのだろうか。
# by uchnm | 2009-04-25 00:00
第44回:セットで売る
コーヒーが好きだ。そして、それと同じくらい、コーヒーと一緒に食べる少しの甘いものが好きだ。だからケーキも当然のごとく好きなのだけれど、家でコーヒーをひとり分入れることはあっても、家にケーキを買ってきてひとりで食べることはまずないといってよい。別にかっこつけているわけでも恥ずかしがっているわけでもなく、たまには食べたいような気もするのだけれど、なぜだかそういう習慣がないのだ。だからケーキを食べるのは、たくさんの人が集まる場所に買っていったようなときか、あるいはカフェなどでケーキセットを頼んだときということになる。ぼくのような一人暮らしの男子には、そういう人は多いのではないかと思う。

よくよく考えてみて、ケーキセットほど、セットらしいセットはないということに気づいた。セット販売されているものの例をいろいろ挙げてみると、このようにお互いがそれぞれ単体でも楽しめて、かつセットになるとよりお互いを引き立たせる相乗効果を生む、という組み合わせは意外とない。メジャーなものとして思い当たるのはハンバーガーとポテトであったり、日本人には不動のご飯と味噌汁というのがあるが、どれも食べ物同士のセットばかりだ。もちろんタバコとライターとか、アンプとスピーカーとか、食べ物以外のセットも思い浮かぶが、それらはそれぞれ主従関係があるというか、タバコは火がつかないと吸えないし、スピーカーはアンプがないと音が出ないから、相乗効果というのとはちょっと違う。ジム・ジャームッシュの映画で『コーヒー&シガレッツ』というのがある(関係あるかどうかは知らないけれど、ずっと昔のオーティス・レディングの曲に「シガレッツ&コーヒー」というのもある)ように、スモーカーにとって「コーヒーと煙草」もまた揺るぎない強さを持ったセットだけれど、セットで販売されているわけではない。

「文庫本セット」というのをやることになった(※1)。コーヒーと文庫本のセットということなのだけれど、このように考えてみると、今までなかったのが不思議な気さえしてくる。「コーヒーと本」は、「コーヒーとケーキ」や「コーヒーと煙草」に負けないほどスタンダードな組み合わせだからだ。文庫本であれば、ケーキセットとほぼ同じ価格で提供できる。いつかやりたいと前々から思っていた企画で、やれるならここがいいなというカフェが青山のとある建物の中にあって、そしてたまたまその建物を運営している会社の人と知り合ったので、企画を持ち込んでみたら実現してしまった。

「本は本屋だけで売るべきものではない」という話は、これまでもたくさん書かせていただいてきたし、ぼくだけでなく色々な人が色々なところで、書いたり話したり実際に実現したりしている。ぼくは洋服や雑貨がメインのお店で、本の売り場をつくるという仕事をやっているが、その場合の本は、メインで販売している洋服や雑貨などの背景にある思想や文化を伝えるための、いわば補完的なものである。一方、たとえばホームセンターの園芸売り場で植物の育て方の本を売ったり、ゲームソフトのショップでゲームの攻略本を売ったりというようなケースにおいては、本はそのメインで販売しているものの実用のための、直接的なガイドとなる。

カフェで、コーヒーとセットで文庫本を出すというのは、その中間に位置するものと考えることができるだろう。その関係性は、背景を知るためというほどには間接的ではなく、しかしながら実用のためというほどには直接的でない。そこにあるのは、それぞれ単体でも楽しめるもの同士の相乗効果であって、「飲みながら読む」という行為によって生み出される、至福の時間を楽しむものだ。そもそもカフェというもの自体がコーヒー単体ではなく、いろいろな利用の仕方が許されている曖昧な空間と、そこに流れる時間とを含めて売り物にしている場所だから、そこで楽しむための「今月の文庫本」がメニューに並んでいても、本来はそれほど驚くべきことではないように思う。

ところで、まだ「文庫本セット」が始まってもいないのに、ぼくは「本の入ったギフトセット」というのを思いついた。どんなものにしようか、アイデアが固まったらどこの雑貨屋に持ち込もうか、目下思案中だ。

※1:文庫本セット
青山スパイラルカフェにて4月12日から、17時以降に提供開始。
http://bunkoset.numabooks.com/
# by uchnm | 2009-03-25 00:00 | 本と本屋
第43回:今年1年を総括してみる
毎年、この時期にきて誰もが、年末年始をできるだけ安らかに過ごすために、必死で何かをまとめたり、年末進行だといって大量の仕事を早まってこなしたりしている。もうそれもピークを迎えるころで、ぼく自身ももちろんそうだ。というわけで、この連載ももう4年目になるのだけれど、ちょうど2年前のこの12月の時期に、1年間自分が書いたことを総括したことがある。昨年はそれをやっていなかったのだけれど、今年はあらためてまた1年分、書いた原稿を読み返してみた。

第33回:コンテンツも、決まりも変わる
第34回:インターネット時代の人文書のこと
第35回:本をどう作り、どう売るのかという終わらない話
第36回:現代美術が本をプロダクトとして浮き彫りにする
第37回:本と旅とプロダクト
第38回:一番大きな、本のイベントのこと
第39回:雑誌の定期購読のこと
第40回:これから面白くなるかもしれない洋書のこと
第41回:本を「めくる」
第42回:いつか自分の書店をやりたいかもしれない

「コンテンツも、決まりも変わる」でトピックにした「ダビング10」は7月から運用が開始され、「ダウンロード違法化」も、実効性はほとんどないものの、この10月の「私的録音録画小委員会」で了承された報告書骨子案でほぼ決定した。「インターネット時代の人文書のこと」で触れた「mixiの規約改訂」はもう今や誰も話題にしないし、「現代美術が本をプロダクトとして浮き彫りにする」で紹介した施井泰平、飯田竜太の両氏はそれぞれ8月、11月に所属のギャラリーでの個展を開催した。「これから面白くなるかもしれない洋書のこと」で触れた洋雑誌も、新設された日販の子会社DIPや日本出版貿易などの手によって、ほぼすべてが流通するようになった。時が流れるのは早い、と改めて思う。

しかしそんな中、ぼくがこの1年で最も印象的だったニュースは、やはり洋販の自己破産と、あとはソニーと松下が電子書籍端末から撤退したことだ。グローバル化とデジタル化がこれだけ当たり前に進行している世の中にあって、この2つのニュースは象徴的に、出版業界がその当たり前の流れに乗り切れていないことを示していたように思う。一方、金融危機によって他の多くの業界が大きな打撃を受けている中で、ある書店チェーンの社長が「出版はましなほう」と言っていたのもまた、別の意味で印象的だった。周囲では瞬く間に流れ、内側ではゆるやかに流れる。良くも悪くも、そうなのだ。

またネット上では、つい先月のことではあるが、「書店は入場料を取ってよい」(※1)というエントリがはてなブックマークで500を超えるブックマークを集め、多くの議論を生んだことも印象的にだった。「本屋のほんね」さんはその記事を受けて、ぼくが過去に仲間とやっていた入場料制の古本屋のことを話題にしてくださったけれど(※2)、いわゆる新刊書を扱うとしても、それと同様にまったく別のものとして発想すれば、ビジネスとして成立させる可能性はいくらでもあるとぼくは思っている。このエントリから派生した多くの議論は根本的に従来の書店のビジネスモデルの範囲内で、その問題点をつつきながらその周囲をグルグルしているだけだった。けれどディズニーランドだって入場料を取ってモノを売っているわけだから、何によって人を呼び、何を収益源とするかというところから考え直せば、少なくとも思考実験はいくらでもできるだろう。秋葉原あたりいいんじゃないだろうかとぼくは思っているけれど、この話は長くなるのでまた別の機会に。それでは、よいお年を。

※1「書店は入場料を取ってよい」
http://chikura.fprog.com/index.php?UID=1227163619

※2「書店は入場料を取って良い、はてブでこんな意見が人気だったんで、書
店員として思ったことを書いてみます。 - 本屋のほんね」
http://d.hatena.ne.jp/chakichaki/20081122
# by uchnm | 2008-12-26 13:24
第42回:いつか自分の書店をやりたいかもしれない
 いま、名古屋から長野に向かう特急「しなの」の中でこれを書いている。とある雑誌の企画で、ここのところ地方の新刊書店をいくつか取材してまわっていて、あと1件を残すところなのだけれど、これまでこうやっていろいろな書店の人と立て続けに話すことで得られたものは、記事に書こうとしていることよりもはるかに多かった。

 小さな企画のわりに結構な数の書店を回るので、取材に行く前には、どこかとどこかの書店で聞く話がほとんど同じような意見になる、といったこともあるのではないかと予想していた。取次配本というシステムの中でややもすると「金太郎飴」と揶揄されてしまうような業界である。だけれどこれが、面白いくらいに違う。実際は、回ったところには配本を受けていないところも多いけれど、普通に受けているところもあるし、だいたい同じ「本離れ」といわれる環境の中でものを売っているのは変わらない。それでも、それぞれが別々の方向を向いていて、なお本質的には重なってくるという、うれしい結果だった。名のある書店を回っているからというのもあるだろうが、よくある暗い話もほぼまったく出てこない。

 印象的だった話は本当にいっぱいあったのだけれど、ともあれぼくは初めて、いつか自分の書店をやりたいかもしれない、と思った。今までにやってきたような実験的なものや、誰かの資本のもとにやるものではなく、すべて自分の手が届く範囲の書店。今までも何度か、いつか自分の店を持ったりしたいんじゃないの、と聞かれたことがあった。ぼくはそのたびに、自分は書店でない場所に本の売り場をつくったり、ひとつの出版社や取次や書店の中に属していないからこそできることをやっていきたいと思うので、いまは考えていません、と答えていたし、実際にそう思っていた。書店という空間は誰にも負けないくらい好きだけれど、自分がひとつの場にしばられてしまうことについては、なんとなく怖いと思っていた。

 けれど今回ぼくは、街のひとつの書店が、どんなもの同士の媒介者にもなることができ、いかようにも書店であることを逸脱できるということを知った。ある店主は、その地域一帯を文化の街にするためのプロジェクトを、東京にも頻繁に訪れさまざまな業界の人々に積極的にコンタクトしながら、行政を巻き込んでやっていこうとしていた。一方のある店主はよりアンダーグラウンドに、その地域のアーティストやミュージシャン、およびギャラリーやライブハウスなどと強いつながりを持ちながら、その地域にやってくるものを積極的にサポートし、自らも作品制作を続けていた。かと思えばある店主は、ほとんど友達のようなお客さんたちに囲まれ、それらの要素をどんどんと吸収していき、一緒になって書店を作っていっていた。彼らは逸脱しているといわれる自分の店を、これこそが普通の書店なんだと言ったり、そういうような顔をして話を聞かせてくれた。

 ふだんの書店業務で忙しいのでは、という質問を彼らにぶつけても、当たり前のような顔をして、そうやってきたからそうでもない、というようなことを答える。ぼくはこれまで、そこには限界があるような気がしていて、だからこそ本を外に持ち出していたように思う。いや、正確にいうと忘れていたのだと思う。本が集まってくる場所に、人が集まってくるということの面白さと、そこにまだまだたくさん落っこちているはずの可能性のこと。書店という業態を媒介として、こういうことをやりたい、というようなことを話すことが、なんだか恥知らずの夢物語のように感じられてしまったのはいつからだっただろう。

 もちろん、簡単なことではないのはわかっている。きちんとそれで食べていかなければならないのだから、そうやってきたからそうでもない、と言い切るのは並大抵のことではない。まだまだ、本当にやるのか、やりたいのかどうかも、わからないとは思う。ただ、書店でないということの可能性よりも、書店であるということの可能性のほうが、ひょっとしたら大きく、面白いかもしれない、と感じてしまったのだ。そしてそのために、ぼくに足りない経験は必ずしも、書店員としての経験ではないというふうにも感じた。

 なんだかただの感想文みたいになってしまって、抽象的な話ばかりで申し訳ないのだけれど、もし書店をやってみたいと思っている人がいるならば、どんなに忙しくても実際に自分の気になる店を訪れて、それぞれの店主に直接話を聞いて回るのが、一番いいのだと思う。たいていは店をやりたくてと言えば、取材でなくても話してくれるだろうし、取材という形をとりたければウェブサイトなりリトルプレスなり、自分でメディアを立ち上げればいい。きっとそれぞれ個人のやりたいことや趣味や性格によって、着地するところは違うはずだし、自分がやりたいのはやっぱり店ではなかった、ということを逆に知ることになるかもしれない。何にせよぼくは、これまでの人生で訪れたいろんな店の人と話をしなかったことを悔やんでいるし、これからも可能な限り旅をしながら人の話を聞き、考え続けてみたいと思っている。


※冒頭の「とある雑誌」は『Esquire』2009年2月号(2008年12月24日発売予定)。「本棚」の特集号です。書いているのは全然違うことなので、よろしければぜひご覧ください。
# by uchnm | 2008-11-25 14:13 | 本と本屋


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「ぼくたちが本と出会うときのこと」は、ブックピックオーケストラ発起人、numabooks代表の内沼晋太郎が、「[本]のメルマガ」で書かせていただいている月一回の連載です。
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