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第45回:そもそも「本」とは何のことなのか
 宇多田ヒカルの『点』と『線』いう本が二冊同時に発売になったけれど、ところでぼくらは小学生のころに、算数で「点」が大きさをもたないことや、「線」が太さを持たないことなどを習った。実際の「点」や「線」はそうではないから、最初はちょっと不思議に思ったようにうっすら記憶しているけれど、やっていくうちに当たり前のこととして慣れてしまったのだったと思う。そして中学、高校とすすみ、その科目がなぜだか数学という風に名前が変わり、同時に他の理系科目に触れるようになると、そこで行われた「点」と「線」についてのルール付けがあくまで「仮定」であり、そしてその「仮定する」ということが「考えを進める」ためにどれだけ必要不可欠かということを、年齢を重ねながらだんだんと知っていくことになる。そしてその数学で仮定する空間について初めてきちんと記し、いまも読み継がれているエウクレイデス(ユークリッド)の『原論』という本は、なんといまから2000年前に書かれた本だ。

 ぼくはいま簡単に、2000年前に書かれた「本」だと書いたけれど、2000年前にエウクレイデスが書いたのはいまぼくたちが知っている「本」とはだいぶ違う。詳しくは本の歴史について書かれた多くの本に譲るけれど、少なくともグーテンベルクの活版印刷技術が生まれたのは15世紀だから、エウクレイデスがいま『原論』を書いてそれを日本の普通の本屋に「これぼくが書いたので売ってください」といってもおそらく売ってもらえない。まず出版社に持っていけば出版してくれるかもしれないが、そうなっている時点で既に「本」というものは、「形態」であると同時に「システム」であるといえる。最近ぼくも自分の本を書いたけれど、いまぼくが「本を書いた」というとき、それはたいてい紙に印刷され綴じられた束が出版社から発売され、そしてそれが取次を経由し書店に並ぶのだということをさす。しかしエウクレイデスの時代にはいまのような紙も印刷技術もないから当然いまの「形態」ではないし、いま日本でいうところの出版社も取次も書店もないからいまの「システム」の中でそれは「本」とは呼ばれない。

 ところで「2000年前に書かれた本」というのはあるけれど、「2000年前に書かれたmixi日記」というのは今のところない。2000年前どころか20年前に書かれたものさえないのだけれど、仮に2025年までmixiがサービスを続けているとするならば、少なくとも「20年以上続いているmixi日記」というのが存在することになる。そして仮に2000年間サービスが続けば、そこには「2000年前に書かれたmixi日記」というのが存在することになり、当然idのかなりの割合は故人であるということになる。たまたまネットサーフィンをしていたり何かを検索したりしていたら、自分の先祖の遺したものを見つけてしまうというような世界だ。そのころにいまインターネットと呼ばれているものが同じ形式を保っているとは到底思えないが、少なくともいま存在すれば「本」でないところの『原論』が「本」と呼ばれるように、「形態」や「システム」などが異なり別の名前で呼ばれている何かを人々が使いこなし、たとえばそういう、先祖が遺した何かが簡単に見つかるような時代を通過することはおそらく間違いない。

 だいぶ未来に話が飛んでしまったけれど、ともあれいまの「形態」や「システム」において存在する「本」は、大雑把にいうとその中身をつくるのにかかった費用と、その外側をつくるのにかかった費用とをもとに、価格が決定されることによって市場の中で商品として成立している。前者は印税や原稿料、ブックデザイン料、イラストがあればそのイラスト料、写真を撮影したならそのカメラマンのギャラというような諸経費で、一方の後者は紙代と印刷費というのが一般的だ。そこで、たとえばこれから出版不況と呼ばれる状況がどんどんと加速して、2025年という近い未来に、本のデジタル化が進んだおかげで、いわゆる現在の「形態」や「システム」を前提として存在する「本」の売上が、いまの10分の1になっていると仮定してみる。そのとき「本」がそのままいつかなくなってしまう可能性があるのは、全てがデジタルに移行していった場合ではなく、むしろデジタル化がスムーズに行えなかった場合だとぼくは思う。

 なぜならそのくらいの未来には端末はおそらく紙と区別がつかないほどに進化しており、そのタイミングまでにデジタル化したコンテンツを販売するノウハウがあり収益をあげることができるようになっていれば、「それでもデータではなく紙の本がいい」という一定の層に対して、ほぼ同じ「形態」「システム」のままで供給することができるかもしれないからだ。デジタルの場合は中身をつくることにしか費用がかかっていないから、その上にプラスでいわゆる「本」もつくろうとした場合そこにかかるのは外側の費用だけであり、仮に部数がいまの10分の1になったとしても価格にそのまま10倍となって跳ね返るようなことは起こり得ない。よって、その段階へと向かっていく変化が漸進的であり、それに対応し続けていくことができれば、取次があって書店があるというシステムもまたボリュームにあった形にシフトしていくことで維持することができる。またリサイズしながらもそういったシステムを維持することができれば、高額になることは承知の上で「このコンテンツは本というメディアにこそふさわしいコンテンツだから、データ化しないで本としてのみ流通させよう」というような試みもまた、行いやすくなる。

 しかしデジタル化がスムーズに行えず、かつ売上はだんだんと下がっていきいつの間にか10分の1になってしまっていたということだとすると、そこで失われた10分の9の売上分は食事かファッションか美容か、あるいは音楽や映画かゲームか分からないが、とにかく本以外のものに消費されたのだということになる。いま「本」の側にあるコンテンツというのは、ただテキストおよび静止画からなるコンテンツであるというだけでなく、自費出版されたものを除いては一定の評価と質に基づいたものであるという前提のもと、きちんと編集されて世の中にリリースされるコンテンツだけれど、それはそういったコンテンツそのものの分量が10分の1になってしまうという危険性も内包している。これは以前トークショーで話題にさせていただいた「本屋から人文書というコーナーがなくなったとき、人文というものもまたなくなってしまうのか」という話とも近い。実際はそうはなり得ないけれど、少なくともビジネスでなくなってしまう危険性がある以上、それをやる人がいなくなっていってしまう可能性は充分にあり得るのだ。

 そういった意味でぼくはデジタル化して楽しまれるべきコンテンツは、それにどんな痛みや一時的な不利益が伴ったとしてもどんどんデジタル化していく必要があると考えている。そしてそれがスムーズに行われるとき、従来の「形態」と「システム」にのっとったいわゆる現在の「本」ではなく、デジタルであろうが紙であろうがそういう「一定の評価と質」と「編集」という前提をもったコンテンツこそをいずれ「本」と呼ぶようにシフトしていくのではないか、と勝手に思っている。そのときエウクレイデスの『原論』はデジタルで配信されても「本」であり、宇多田ヒカルの『線』はブログを書籍化したものだから「本」というよりはむしろそれ自体「ブログ」と呼ばれるほうが近いというようなことなのだけれど、果たしてどうなるのだろうか。
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by uchnm | 2009-04-25 00:00


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「ぼくたちが本と出会うときのこと」は、ブックピックオーケストラ発起人、numabooks代表の内沼晋太郎が、「[本]のメルマガ」で書かせていただいている月一回の連載です。
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