カテゴリ:本と本屋( 44 )
第44回:セットで売る
コーヒーが好きだ。そして、それと同じくらい、コーヒーと一緒に食べる少しの甘いものが好きだ。だからケーキも当然のごとく好きなのだけれど、家でコーヒーをひとり分入れることはあっても、家にケーキを買ってきてひとりで食べることはまずないといってよい。別にかっこつけているわけでも恥ずかしがっているわけでもなく、たまには食べたいような気もするのだけれど、なぜだかそういう習慣がないのだ。だからケーキを食べるのは、たくさんの人が集まる場所に買っていったようなときか、あるいはカフェなどでケーキセットを頼んだときということになる。ぼくのような一人暮らしの男子には、そういう人は多いのではないかと思う。

よくよく考えてみて、ケーキセットほど、セットらしいセットはないということに気づいた。セット販売されているものの例をいろいろ挙げてみると、このようにお互いがそれぞれ単体でも楽しめて、かつセットになるとよりお互いを引き立たせる相乗効果を生む、という組み合わせは意外とない。メジャーなものとして思い当たるのはハンバーガーとポテトであったり、日本人には不動のご飯と味噌汁というのがあるが、どれも食べ物同士のセットばかりだ。もちろんタバコとライターとか、アンプとスピーカーとか、食べ物以外のセットも思い浮かぶが、それらはそれぞれ主従関係があるというか、タバコは火がつかないと吸えないし、スピーカーはアンプがないと音が出ないから、相乗効果というのとはちょっと違う。ジム・ジャームッシュの映画で『コーヒー&シガレッツ』というのがある(関係あるかどうかは知らないけれど、ずっと昔のオーティス・レディングの曲に「シガレッツ&コーヒー」というのもある)ように、スモーカーにとって「コーヒーと煙草」もまた揺るぎない強さを持ったセットだけれど、セットで販売されているわけではない。

「文庫本セット」というのをやることになった(※1)。コーヒーと文庫本のセットということなのだけれど、このように考えてみると、今までなかったのが不思議な気さえしてくる。「コーヒーと本」は、「コーヒーとケーキ」や「コーヒーと煙草」に負けないほどスタンダードな組み合わせだからだ。文庫本であれば、ケーキセットとほぼ同じ価格で提供できる。いつかやりたいと前々から思っていた企画で、やれるならここがいいなというカフェが青山のとある建物の中にあって、そしてたまたまその建物を運営している会社の人と知り合ったので、企画を持ち込んでみたら実現してしまった。

「本は本屋だけで売るべきものではない」という話は、これまでもたくさん書かせていただいてきたし、ぼくだけでなく色々な人が色々なところで、書いたり話したり実際に実現したりしている。ぼくは洋服や雑貨がメインのお店で、本の売り場をつくるという仕事をやっているが、その場合の本は、メインで販売している洋服や雑貨などの背景にある思想や文化を伝えるための、いわば補完的なものである。一方、たとえばホームセンターの園芸売り場で植物の育て方の本を売ったり、ゲームソフトのショップでゲームの攻略本を売ったりというようなケースにおいては、本はそのメインで販売しているものの実用のための、直接的なガイドとなる。

カフェで、コーヒーとセットで文庫本を出すというのは、その中間に位置するものと考えることができるだろう。その関係性は、背景を知るためというほどには間接的ではなく、しかしながら実用のためというほどには直接的でない。そこにあるのは、それぞれ単体でも楽しめるもの同士の相乗効果であって、「飲みながら読む」という行為によって生み出される、至福の時間を楽しむものだ。そもそもカフェというもの自体がコーヒー単体ではなく、いろいろな利用の仕方が許されている曖昧な空間と、そこに流れる時間とを含めて売り物にしている場所だから、そこで楽しむための「今月の文庫本」がメニューに並んでいても、本来はそれほど驚くべきことではないように思う。

ところで、まだ「文庫本セット」が始まってもいないのに、ぼくは「本の入ったギフトセット」というのを思いついた。どんなものにしようか、アイデアが固まったらどこの雑貨屋に持ち込もうか、目下思案中だ。

※1:文庫本セット
青山スパイラルカフェにて4月12日から、17時以降に提供開始。
http://bunkoset.numabooks.com/
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by uchnm | 2009-03-25 00:00 | 本と本屋
第42回:いつか自分の書店をやりたいかもしれない
 いま、名古屋から長野に向かう特急「しなの」の中でこれを書いている。とある雑誌の企画で、ここのところ地方の新刊書店をいくつか取材してまわっていて、あと1件を残すところなのだけれど、これまでこうやっていろいろな書店の人と立て続けに話すことで得られたものは、記事に書こうとしていることよりもはるかに多かった。

 小さな企画のわりに結構な数の書店を回るので、取材に行く前には、どこかとどこかの書店で聞く話がほとんど同じような意見になる、といったこともあるのではないかと予想していた。取次配本というシステムの中でややもすると「金太郎飴」と揶揄されてしまうような業界である。だけれどこれが、面白いくらいに違う。実際は、回ったところには配本を受けていないところも多いけれど、普通に受けているところもあるし、だいたい同じ「本離れ」といわれる環境の中でものを売っているのは変わらない。それでも、それぞれが別々の方向を向いていて、なお本質的には重なってくるという、うれしい結果だった。名のある書店を回っているからというのもあるだろうが、よくある暗い話もほぼまったく出てこない。

 印象的だった話は本当にいっぱいあったのだけれど、ともあれぼくは初めて、いつか自分の書店をやりたいかもしれない、と思った。今までにやってきたような実験的なものや、誰かの資本のもとにやるものではなく、すべて自分の手が届く範囲の書店。今までも何度か、いつか自分の店を持ったりしたいんじゃないの、と聞かれたことがあった。ぼくはそのたびに、自分は書店でない場所に本の売り場をつくったり、ひとつの出版社や取次や書店の中に属していないからこそできることをやっていきたいと思うので、いまは考えていません、と答えていたし、実際にそう思っていた。書店という空間は誰にも負けないくらい好きだけれど、自分がひとつの場にしばられてしまうことについては、なんとなく怖いと思っていた。

 けれど今回ぼくは、街のひとつの書店が、どんなもの同士の媒介者にもなることができ、いかようにも書店であることを逸脱できるということを知った。ある店主は、その地域一帯を文化の街にするためのプロジェクトを、東京にも頻繁に訪れさまざまな業界の人々に積極的にコンタクトしながら、行政を巻き込んでやっていこうとしていた。一方のある店主はよりアンダーグラウンドに、その地域のアーティストやミュージシャン、およびギャラリーやライブハウスなどと強いつながりを持ちながら、その地域にやってくるものを積極的にサポートし、自らも作品制作を続けていた。かと思えばある店主は、ほとんど友達のようなお客さんたちに囲まれ、それらの要素をどんどんと吸収していき、一緒になって書店を作っていっていた。彼らは逸脱しているといわれる自分の店を、これこそが普通の書店なんだと言ったり、そういうような顔をして話を聞かせてくれた。

 ふだんの書店業務で忙しいのでは、という質問を彼らにぶつけても、当たり前のような顔をして、そうやってきたからそうでもない、というようなことを答える。ぼくはこれまで、そこには限界があるような気がしていて、だからこそ本を外に持ち出していたように思う。いや、正確にいうと忘れていたのだと思う。本が集まってくる場所に、人が集まってくるということの面白さと、そこにまだまだたくさん落っこちているはずの可能性のこと。書店という業態を媒介として、こういうことをやりたい、というようなことを話すことが、なんだか恥知らずの夢物語のように感じられてしまったのはいつからだっただろう。

 もちろん、簡単なことではないのはわかっている。きちんとそれで食べていかなければならないのだから、そうやってきたからそうでもない、と言い切るのは並大抵のことではない。まだまだ、本当にやるのか、やりたいのかどうかも、わからないとは思う。ただ、書店でないということの可能性よりも、書店であるということの可能性のほうが、ひょっとしたら大きく、面白いかもしれない、と感じてしまったのだ。そしてそのために、ぼくに足りない経験は必ずしも、書店員としての経験ではないというふうにも感じた。

 なんだかただの感想文みたいになってしまって、抽象的な話ばかりで申し訳ないのだけれど、もし書店をやってみたいと思っている人がいるならば、どんなに忙しくても実際に自分の気になる店を訪れて、それぞれの店主に直接話を聞いて回るのが、一番いいのだと思う。たいていは店をやりたくてと言えば、取材でなくても話してくれるだろうし、取材という形をとりたければウェブサイトなりリトルプレスなり、自分でメディアを立ち上げればいい。きっとそれぞれ個人のやりたいことや趣味や性格によって、着地するところは違うはずだし、自分がやりたいのはやっぱり店ではなかった、ということを逆に知ることになるかもしれない。何にせよぼくは、これまでの人生で訪れたいろんな店の人と話をしなかったことを悔やんでいるし、これからも可能な限り旅をしながら人の話を聞き、考え続けてみたいと思っている。


※冒頭の「とある雑誌」は『Esquire』2009年2月号(2008年12月24日発売予定)。「本棚」の特集号です。書いているのは全然違うことなので、よろしければぜひご覧ください。
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by uchnm | 2008-11-25 14:13 | 本と本屋
第41回:本を「めくる」
 音楽が好きで、たまにDJをしている。一時期のファッション的なDJブームは去り、最近は純粋に音楽が好きな人たちによって、自主的に企画されたパーティが目立っているようだ。ぼく自身もそういうものを主催したり、または友人が主催するイベントに呼ばれて出演したりしていて、それらは小さいものは都心部のクラブやカフェ、あるいは大きなものでは海辺や山の中などのアウトドアを会場に、無数に存在する。

 ぼくがメインで使うのはいわゆるCD-Jと呼ばれる機材で、CDを擬似的にアナログレコードのように「回す」ことができるものだ。もちろんアナログにこだわるDJも数多くいる。またその一方で、PCでDJ用のソフトを使い、デジタルデータの音源をデスクトップ上で再生するデジタルDJもだいぶ一般化してきており、彼らの中にはVCI-100(※1)のような、擬似的にデジタルデータを「回す」ためのインターフェイスを使用する者も少なくない。音源を自分の手で「回す」という身体的な行為は、音源がどういう形態であれ、DJを楽しむ多くの人間にとって欠かすことのできない要素なのだ。

 本がCD登場以降のレコードのようにインターネットに取って代わられ、趣味的なものになってしまうのではないかという懸念は、インターネット勃興期の、だいぶ昔からあったものだ。さすがに今となっては、ほとんどの人がそれほどの完全な移行はありえないと感じていると思うけれど、ぼくはこれまでこの種の懸念を、アナログからデジタルへというメディアの変遷という文脈、あるいは旧メディアに対するプロダクトとしての愛着という文脈でしか、とらえてこなかったように思う。

 けれど最近になって、そこにはもうひとつの要素として、その音楽/読書体験の身体性や運動性という文脈が、かなり強い要素として存在するのではないか、ということに思い当たった。つまり音楽における「回す」「回る」と、読書における「めくる」「めくれる」との類似であり、それはすなわち「回す」という行為にこだわるDJと、「めくる」という行為にこだわる読者とを並列に考えてみることで、いろいろ見えてくるのではないかということでもある。

 フリーのCD-ROMマガジンとして2004年から季刊で発刊されていた『CINRA MAGAZINE』(※2)が、最新号である第19号をもって休刊し、ウェブメディアである『CINRA.NET』(※3)上に移行することとなった。PCで再生しコンテンツを楽しむことができるのはもちろん、CDプレイヤーにもそのまま入れて音楽を楽しめるというのも大きな特徴であったが、高速なインターネット接続環境が広く普及し、音楽再生なども含め文化として根付いたことから、それがウェブサイトに完全移行するのはしかるべき流れといえる。共有される可能性があるデータはすべてインターネット上、すなわち「あちら側」にあればいいのである。

 デジタルオーディオプレイヤーが普及したことにより、音楽CDを買わなくなっただけでなく、そのコピーとしてのCD-Rすら、日常のリスニングの際に使用する機会は減っているように思う。同時にデータのやり取りにおいても、メール添付でストレスなくやり取りできるデータ量も増え、ファイル送信やオンラインストレージなどのサービスも普及し、USBメモリなどより気軽な補助記憶装置が出てきたことによって、CD-R(W)を介する機会は相対的に減っている。

 つまり日常的に「回る」ディスクを見る機会が、どんどん減っているのだ。ハードディスクが中で「回って」いることはあっても、ブラウザやソフトウェア、あるいはデジタルオーディオプレイヤーそれ自体が「回る」ことはない。人々は商品としての音楽CDから離れているだけではなく、ディスクが「回る」のを眺めたり、それを「回す」という行為から離れていってしまっているのではないだろうか。

 おなじように人々は、読書という体験から離れていっているだけでなく、そもそも「めくる」という行為からも離れていっている。もちろん手帳やノートもカタログも「めくる」ものだけれど、それらもまた、みな「あちら側」にどんどん移行しているのは周知の通りだ。ぼくにしても、スケジュール管理には「Google Calender」を使っているし、事務用品をアスクルで頼むときは紙のカタログではなくオンライン上で決済までしてしまう。

 過去を思い起こせばまず真っ先に「あちら側」に移行したのは、検索性が問われ、かつほぼテキスト情報のみで構成される、英和辞典などの辞書コンテンツであった。むしろ小説のように、頭から終わりまでがリニアに繋がり、それが「めくる」という身体のリズムとともに発展してきたコンテンツであればあるほど、デジタル化されたものに対しては違和感を感じるように思う。その意味では、「めくる」という行為における最後の砦は、小説やエッセイのような活字コンテンツだといっても過言ではない。

 現に、本にまつわる仕事と並列してインターネットにまつわる仕事も請けているぼくのところでも、ウェブサイトのフラッシュ制作の案件の中で「本をめくるようなアクション」を要求されることがある。もともと本のことをやっているので当然そういったアクションは得意にしているのだけれど、そもそもそういったニーズがあること自体、人々の「めくる」という行為に対する愛着が感じられる。そして、それをブラウザ上で擬似的に再現することはできても、実際に動かすインターフェイスがマウスになってしまうというのが、もどかしい。

 そういう意味で最も「めくる」に近い操作感を体験させてくれるデジタルデバイスが、「iPod Touch」および「iPhone」である。「iPod Touch」を初めて触り、複数の画像ファイルなどを順番に閲覧していったとき、その操作感を「雑誌のようだ」と感じた人は多いだろう。時代の中で「iPod Touch」および「iPhone」がこれだけ受け入れられている大きな理由のひとつを、「めくる」を初めて実装できたからだ、というふうに仮定してみると、また違った活字コンテンツの未来が見えてくるのではないか、とぼくは考えている。


※1:VCI-100
http://www.vestax.jp/products/players/vci100.html

※2:CINRA MAGAZINE
http://cinra-magazine.net/

※3:CINRA.NET
http://cinra.net/
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by uchnm | 2008-10-25 00:00 | 本と本屋
第40回:これから面白くなるかもしれない洋書のこと
ぼくは、ほとんど英語が話せない。読むのもスピード自体ものすごくかかるから、実践には到底使えない。それもたいていはだいたいの意味しかわかっていないし、そもそも意味を取り違えていることも多い。どうにかしなければと、なるべく読むようにしているけれど、いまのところは全然だめだ。

日本で一番大きかった洋書取次、洋販が自己破産してからもう2ヶ月が経とうとしている。その内容の詳細も、かつての社長を中心とした経緯も、ブックオフによるABC支援の話も、既に多くの人が書いているので。特に詳しい人間でもないぼくが繰り返すことはやめるけれど、とにかくまず多くの洋書取扱書店で行われたのは、在庫品のセール販売と、洋雑誌コーナーの苦肉の修正であった。

洋書取次は数多くあるけれど、特に週刊や月刊のメジャーな洋雑誌に関しては、ほぼ洋販が独占していた。だから洋雑誌コーナーを持っている書店ではそれまで扱っていた雑誌が入荷しなくなり、たいていは見た目や話題が洋風の雑誌で埋め尽くしたり、特集を組んだりしていた。『+81』で埋め尽くされた棚も見たし、『m/f』と『mommoth』のバックナンバーフェアをやっているところもあった。それらは、いつしかまた洋雑誌の取扱が可能になる日を待っているように見えた。

ところでぼくが自分の仕事を説明する中で、本のコーディネイトについて話をするとよく「洋書とかですよね」と言われる。〈アパレルやカフェ=写真集や画集などを扱っている=洋書〉というのがたいていの人のイメージのようで、実際ぼくは和書をメインにすることが多いのだけれど(その理由は説明すると長くなるのでここでは割愛するけれど)、それ以前の事実として、もちろん写真集や画集ばかりが洋書ではないのだ。世界で一番流通しているのは英語で書かれた活字の本のはずなのだけれど、ぼくらは日本語というマイナーな言語を母国語としている。実際それらの流通量はとても少ない。

オンライン書店のAmazonでは、ただ検索性が高く家に持ち帰る手間がかからないというだけではなく、洋書の値段もいちばん安いことが多い。絶版になって見つからないものも世界中のオークションサイトで探すことができるし、洋書は和書よりもずっと、インターネットの優位性が発揮される商品なのだ。もちろん洋販以外の取次も数多くあるし、日販が新しく子会社を作るということではあるけれど(※1)、その大前提は変えることができない。

しかし実際は英語がある程度できたり、あるいはぼくのように勉強しなければと思っている日本人は山ほどいる。グローバル化するビジネスにおいて云々というまでもなく「英語くらい話せなきゃね」という風潮は未だ高まる一方だ。にもかかわらず、洋書に「出会う」ことができるリアルな場所に存続の危機が訪れてしまうというのは、なんだかきびしい現実だ。

それはぼく自身がそうであるように、ふらりと訪れた書店で洋書に「出会う」楽しみを味わえるほどの英語力がなかったり、もしくはその英語力はあっても読書の習慣がなかったりすることの表れでないとも言えない(そして、今はまだ回復し存続する方向に向かってはいるが、同じ危機が洋書だけでなく、本そのものにも訪れないとも限らないことを示唆していないともいえない)。

ぼくは最近「〈本〉をブランディングする」ことの重要性をずっと感じていて、そろそろ動き始めようと思っていたのだけれど、ひょっとするとそれ以前に「〈洋書〉をブランディングする」ことのほうが重要なことかもしれない。時代をイメージするのに書店の棚というのはとても生きたメディアだと思うけれど、洋書にリアルで「出会う」場所を成立させられない(そして仮に存在しても使いこなすことができない)ということは、世界のことをイメージするための道具をひとつ失うということだ。「英語学習」自体はこれほどメジャーでイメージもいいのに、それが力強く「洋書」に紐づいていないことには、国レベルのキャンペーンを行ってもいいくらいの、もっと根本的な問題解決の糸口があるような気がしてならない。

その一方で、ブックオフ白金台店は売場面積80坪、在庫4万冊という、グループ最大の洋書売場を設置した(※2)。記事によると「港区は、人口の1割強に当たる22,000人が外国籍の住民。各国の大使館や領事館などの施設が多数あり、洋書の需要が見込める」とのことで、特殊な立地に拠るところが大きいが、「今後は海外の店舗とも連携し、アメリカやフランスの店舗利用者から買い取った洋書を直輸入して販売する」とのことで、つまり洋販同様、輸入業をやるということだ。和書においてもブックオフの功績(もちろん意見を異にする人もいるだろうけれどぼくは「功績」だと思っている)は大きいが、ABCをブックオフが支援するというのと時をほぼ同じくしてこういうことが起こると、日本の洋書を変えるのもひょっとしたらブックオフなんじゃないか、という気もしてくる。なんにせよ今だからこそ、洋書が、これから面白くなりそうな予感がするのだ。

※1:日販 洋書輸入販売の新会社を設立
http://www.nippan.co.jp/news/2008/0826.html

※2:白金台の「ブックオフ」がリニューアル 洋書売り場強化、4万冊に
(品川経済新聞)
http://shinagawa.keizai.biz/headline/371/
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by uchnm | 2008-09-25 00:00 | 本と本屋
第39回:雑誌の定期購読のこと
 最近スタッフが増えて、ずっと1人でやっていたところを2人体制にしたのだけれど、それがきっかけになって、仕事で必要な雑誌をいくつか定期購読するようになった。

 しかし周りの友人数人に聞いてみると、雑誌を定期購読した経験は「NHKの語学テキストなどを少し」といった声があった程度で、想像していたよりも少なかった。いわゆる特定の雑誌を毎号買う「固定客」が減り「特集買い」が増えているという話もよく耳にするが、それでも必ず一定数は「固定客」がいるはずだし、雑誌の制作側としては当然、毎号買ってもらえるような雑誌にしていかなければならない。しかも女性ファッション誌を筆頭に、雑誌を毎回書店で買って帰ることを考えるだけでも結構な荷物になるから、毎号自分の手元に届くことのメリットは大きい。普通に考えると、もっと雑誌の定期購読ということ自体がメジャーなものに、一般化してもいいものではないだろうかという気がしてくる。

 前回も書いた東京国際ブックフェアの会場で、日本雑誌協会発行の『これで雑誌が売れる!(※1)』という冊子をいただいた。色々な書店さんの雑誌を売るための工夫が生の声で、5章に分けられまとめられているものなのだけれど、そこでも「外商、定期購読の拡大」にそのうちの1章が割かれているほか、「定期購読キャンペーン全国トップ2書店の『秘訣』を探る」というコーナーもあった。特にいわゆる「街の本屋」、あまり坪数の大きくない小さな書店が生き残っていく方法のひとつとして、雑誌を定期で店頭取り置きするお客様に定期的に来店してもらうことや、毎号配達に回ることで地域密着型の書店として街全体とコミュニケーションをとっていくことなどが、この小さな冊子の中で多く語られている。

 また、それこそ何十年も昔から、たいていの場合、雑誌本体にも定期購読の案内がついている。送料無料は当たり前、ノベルティがついていたり1号分安かったりなど、各社工夫を凝らしてメリットをつけるようになっている。また、それらの定期購読をインターネット上で受け付けるサービスとして、日本のAmazonが雑誌を取り扱う前からサービスを開始している「Fujisan.co.jp(※2)」は既に老舗の風格を出しているし、日販の子会社が運営している「MagDeli(※3)」も、その母体の流通基盤を生かした独自のサービスを展開している。

 特に「Fujisan.co.jp」は、競合の中を勝ち抜く次の手として、これも2006年と早い段階からデジタル雑誌の販売を始め、『AERA』など大手の雑誌の完全デジタル版の定期購読を多く取扱っている。特に海外在住者など、郵送ではリアルタイムに情報が手に入らない人たちや、必要なページだけプリントアウトすれば冊子よりかさばらなくて済むといった人たちに重宝されているようだ。またいわゆる雑誌に限らず、書店流通はせずデジタルのみで発行される冊子や、無料配布で多くの人に届けたいといった冊子も多くここで流通している(実際、先ほど紹介した『これで雑誌が売れる!』は「Fujisan.co.jp」でも配布されている→※4)。

 また個人や団体が任意で発行している、いわゆるインディペンデントプレスのなかでも、定期購読の新しい試みが始まっている。『スニフティ』(※5)はTOKYOHELLOZというパーティクルーが、「東京堂」という出版局を立ち上げて発行している月刊の漫画雑誌だ。彼らの周辺の、初めて漫画を書くミュージシャンから、プロで活躍するイラストレーターや漫画家まで幅広い人々が自由に漫画を書いていて、その自由さ加減が本当に素晴らしい雑誌なのだけれど、この雑誌のもうひとつ面白いところが「年間会員制」をとっていることだ。見本誌のみは一部の書店で販売しているが、実際の月刊誌はすべて定期購読で郵送され、しかも途中で申し込んだ場合も、初回に創刊号からすべて一度に送られてくる。そのまま一年間、12号目までのお金を先に支払うというシステムだ。

 これが実際に利用してみて、インディペンデントプレスにとって非常に優れたシステムだと思った。特に漫画など連載が多い雑誌の場合は、読者としても最初からまとめて読みたい。一方の制作側も、すべて定期であれば無駄な部数を刷ることがない。また、作りたいと思ってはじめた自分たちの雑誌を作り続けるために、先にお金を受け取っている定期購読者がいるということは程よいプレッシャーになり、1~2冊作って飽きてきたから終わり、という風にならず、モチベーションの維持にもつながる。かといって、最初に受け取る金額は創刊から12冊分までと決まっているから、終わりが見えないというわけでもない。

 こういったインディペンデントプレスを扱うショップもだいぶ増えてはいるが、作られる印刷物の数はそれ以上に増えている。発行者がそれぞれのショップに一店ずつ扱ってもらえるように交渉して回り、そのうちのいくつかで扱ってもらえたとしても、そこから毎回納品し回収し請求する、というサイクルを行い続けるのは結構な手間だ。会員は基本的にウェブを中心として、身の回りから口コミで広がる。もちろん見本誌を手に取った読者との偶然の出会いもある。自分たちで冊子を定期刊行したい場合、この『スニフティ』のモデルはひとつの答えであるといえそうである。

 街の書店の活性化に、デジタル雑誌に、インディペンデントプレスに。定期購読は、ここのところすこし熱気を増してきているように思う。徐々に広告収入に頼れなくなっていく雑誌をなくさないために、より定期購読を一般的なものにしていくための工夫を、ぼくももう少し考えてみたいと思う。


※1:私はこうして雑誌売上を伸ばしました 日本雑誌協会「雑誌売り伸ばしプロジェクト」公式ブログ
http://j-magazine.weblogs.jp/blog/

※2:Fujisan.co.jp
http://www.fujisan.co.jp/

※3:MagDeli
http://www.magdeli.jp/

※4:『これで雑誌が売れる!』
http://www.fujisan.co.jp/magazine/1281682618

※5:スニフティ
http://www.tokyohelloz.com/snifty.html
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by uchnm | 2008-08-25 00:00 | 本と本屋
第38回:一番大きな、本のイベントのこと
 2週間ほど前の話になってしまうけれど、今年も東京国際ブックフェア(※1)に行ってきた。ぼくはいつも、りんかい線の国際展示場という駅で降りる。改札内に昔、コインを入れてインターネットができるマシンがあったけれど、久々に訪れたらその場所は宣伝ブースのようになっていて、ガラスケースの中にどこかのメーカーのエコ洗濯機か何かが置いてあった。都内の地下鉄の駅構内でたまに古本を売ったりしているけれど、あれをこの期間中のこの駅でやったら一番売れるんじゃないだろうか、とか考えながら(関係ないけれど最近、東急沿線の売店に「ヨンデルとサガーデル文庫」という新刊書籍のコーナーがあってひそかに注目している。オフィシャルの情報が何もないのはなぜだろう)ビッグサイトに向かっていたら、どこかの出版社の雇用関連のデモはきちんとこの機会に合わせて、道の途中で行われていた。

 ビッグサイトに到着して、一通り見て回る。ある出版社のブースにいた人は「年々業界人よりも一般人のほうが多くなっている」と言っていた。もともと主催の会社はビジネスショーを行うのが専門で、メーカーとバイヤーが商談を行うための場づくりやそのためのアドバイスには長けているのだけれど、利益率が低くアイテム数や新製品が圧倒的に多いこの業界にその基本的な考え方が当てはまらない(海外との版権ビジネスは別だ)ということは、参加者の多くが感じていることだろうとは思う(そもそもこのメルマガの読者と、この東京国際ブックフェアの来場者は、かなりターゲット属性が近いというか、重なっていそうな感じがするのだけれど実際のところはどうなのだろう)。

 だけれどぼくにとっては、行く度に何らかの発見や出会いや、新しい情報がある。特に電子書籍はじめとする出版を取り巻くデジタル技術については、最新のものに実際にまとめて触れることができる貴重な機会だ。出展している出版社の人と直接話ができることも大きいし、各社力の入れ具合にバラツキはあるものの、じっくり向き合えばたくさん面白いことがあるような感じがする。ところが一方で、ふだん出版業界の人と話をしていると「なんだかんだで、だいたい毎年顔は出すけど、行っても面白くないんだよね」という人も多かったりする。

 イベントにおいて出展数や集客がそのままひとつの力であるということは、たとえホームパーティのようなものでもいい、どんな小さなイベントでも、ひとつでも企画したことがある人ならばわかるだろう。基本的に、たくさん人を呼ぶというのは、難しい。それを継続するのはさらに難しい。そして面白い人がたくさん来るイベントなら、そこには何かが起こる。たとえその人たちの一部が付き合いで顔を出しているだけだとしても、その人たちに訴える魅力的なコンテンツがあれば、誰かは足をとめるだろう。そしてこのイベントは、とにかく人は多い。ビジネスのチャンスはいくらでも転がっているのだ。

 もちろんただ多くても、自分のビジネスのターゲットでない人ばかりでは仕方がないし、いったいどうやってそのビジネスのチャンスをつかむのか、といえば、それはケースバイケースなので、ただ「チャンスはある」と言い放ったところで何も言ったことにはならない。ただひとつだけぼくがここで言えることがあるとすれば、多くの出版業界の人が、なんだかこのイベントに対して妙にネガティヴだったり、シニカルだったりするのはどうか、ということだ。

 このイベントが面白いものになれば、出版業界は変わるかもしれない。少なくともぼくはそう感じて(ご存知の方もいると思うけれど)新卒の時にこの主催の会社に入った(そして中からは変えにくいということに気づき二ヵ月半で辞めたのだけれど、その話はまたいつか)。今から他の誰がどういう風に始めたところで、これだけたくさんの出展者と来場者を集めるイベントに成長させるのには、いったい何年かかるかわからない。何年かかっても、できないかもしれない。

 たとえばぼくが毎年訪れるイベントのひとつに、デザインタイドというデザインのイベントがある。同時期に他にもいくつかのイベントが行われ、デザインウィークと呼ばれて業界の年間スケジュールの中のひとつの山場をつくっている。それぞれのイベントに対しての賛否両論はもちろんあるけれど、デザイン業界の人はたいてい、何か新しいプロジェクトをはじめる時、その発表のタイミングとして必ず、このデザインウィーク期間中にどこかに出展する可能性を選択肢に入れる。もちろん来場者には、「知人が出ているから」と付き合いで訪れる人もたくさんいるだろう。しかし少なくとも、出展者はもうちょっと真剣なようにみえる。

 ところが東京国際ブックフェアに訪れると、何のために出ているのだろうという出展者がたくさんいる。仮設のブースそのままにただ商品を並べてボーっと座っている人がいるだけで出展しているブースを見ると、コンテンツをつくっている会社がそれでいいのだろうか、と思う。こういうイベントでは、ブースの見た目からいる人の佇まいまで、空間ごとすべてコンテンツなのだ。失礼を承知ではっきり言うけれど、あれではまるで100円ショップのノートに落書きを書いて「雑誌です」と売っているようなものだ。いくら低予算で経験もないとしたって、手作りでもなんでも、もっといくらでもいいものにできるだろう。

 まず出展者のほうから少しずつ、意識を変えていくこと。あるいは来場者はその場所をできるだけ、積極的に活用してみようとすること。何でもいいから情報をつかんだり、人と知り合ったりしてみること。パーティに来たようなものと思えばいい。繰り返しになるけれど、今から新しく立ち上げてあれほど人を集めるイベントに成長させるのには、いったい何年かかるかわからない。版元と取次と書店、そして読者が、こういった形で一同に介する機会は他に存在しない。それぞれがこの一番大きなイベントの未来を、業界の未来をつくるひとつの場として、当事者としてポジティヴにとらえようとすること。少なくとも「あのイベントはなんだかなあ」とぼやく風潮だけは、なんとか止めたいと思うのだ。


※1:東京国際ブックフェア
http://www.bookfair.jp/
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by uchnm | 2008-07-25 00:00 | 本と本屋
第37回:本と旅とプロダクト
 そんなに多くはないけれど、本特集をやるとか、本がらみの企画をやるとかで、色々な雑誌からときどき、原稿の依頼をいただく。基本的にありがたく引き受けるのだけれど、それがなぜだか夏前のこの時期に多くて、今月発売の雑誌3誌にそれぞれちょっとした原稿を書いた。去年は7月発売の雑誌2誌に書いていたようなので、今年はピークが1ヶ月早まっていることになる。夏が近づくと本に注目したくなるのだろうか、それは、夏休みがやってくるからだろうか?

 先月のこの連載は「現代美術が本をプロダクトとして浮き彫りにする」(※1)というタイトルだったけれど、実は偶然にも、3誌のうち2誌が「本/プロダクト」という内容の原稿依頼だった。それぞれ『スタジオボイス』(※2)と『ハニマグ』(※3)なのだけれど、面白いことに、前者は「本」特集の中で「プロダクトとしての本」という切り口で、後者は「プロダクト」特集の中で「本というプロダクト」という切り口で、それぞれ書いてほしいという依頼だったのである。そしてもう1誌である『エココロ』(※4)は、「旅」特集の中での「本」。旅に出るときに読みたい本についてのコラムを書いたほか、特集の扉に載せる文章の引用もした。

 もちろん『スタジオボイス』も楽しく書かせていただいたのだけれど、どちらかといえば『ハニマグ』や『エココロ』のように、「本」以外の切り口の特集の中で「本」について書くことを要求されるほうが、個人的には性に合っている。まさにこの連載や今回の『スタジオボイス』のように、本というメディアそのものに関わることを書かせてもらえるのであればともかく、いわゆる本好きの人に向けてさらなる知識や情報を知らせるような文章は、もっと得意な人がぼくの他に山ほどいる。それならば、それほど本好きでもない人が読んでいる雑誌に、本への興味を持ってもらうような文章を書くことのほうが、自分には向いているし、やりたいと思うからだ。

 それぞれの内容については最新号を買って読んでいただくとして、同じ内容を書くわけにもいかないので関連させるというか、無理やりに2つを同時に考えようとしてみると、「本」は「旅」において特に「プロダクト」であるということを強く意識させるものだ、ということに気がつく。なんといっても旅の荷物は、本以外にもたくさんある。荷物はできるだけ軽いほうがいいし、旅先のどこでも、気軽に読める形態のほうがいい。

 それゆえ旅には、日本独自の素晴らしいフォーマットである文庫本が、長年親しまれてきた。「かばんの中には文庫本」というmixiコミュニティに3,500人を超える人がいるくらいだ。これは数多ある本関連のコミュニティの中でもかなり多いほうで、それだけ「持ち歩く」ということと切り離せない関係にある。

 他方ビジネスの世界でも、ひとつ前の『東洋経済』も読書特集で、そこに見逃せない記事があった。「ティム・ドレイバー氏はソニーの電子書籍端末『リーダー』(日本名『リブリエ』)を海外出張時に携える。『70冊分はダウンロードしているよ』。(中略)出張の多いビジネスエズセクティブにとって、電子書籍端末は半ば必携のアイテムだ」(※5)。『米国の最新読書事情』と題されたこのコラムはカリフォルニア在住の日本人ライターによって書かれたもので、どのくらい「必携」なのかはさておき、少なくとも日本より格段に専用端末がメジャーであることは間違いなさそうだ。本文中にも触れられているが、米国のハードカバーは大きくて重たい。その点、日本のビジネスマンは新書というフォーマットにだいぶ恵まれているともいえる。

 旅先で読む本は、もちろん内容も重要だ。上のビジネスマンのように電子書籍端末を持ち歩かない限り、たくさん持っていくわけないはいかないから、吟味しなければいけない。そこで、できるだけ面白い読書をする方法のひとつは、その旅先が舞台として出てくる小説を持って行くことだ。これは『エココロ』でも紹介させてもらったけれど、その小説の舞台をマッピングするウェブサービス「honnobutai(ホンノブタイ)」(※6)を、実はつくってしまった。これはぼく自身書いたことを忘れていて、あとで気がついたのけれど、1年ほど前にこの連載に書いた文章(※7)の後半で妄想していたものにきわめて近い。まだ不十分なところだらけだけれど一応動いているし、手前味噌ながらはっきりいって面白いので、ぜひ試してみてください。


※1:「ぼくたちが本と出会うときのこと」第36回:現代美術が本をプロダクトとして浮き彫りにする
http://uchnm.exblog.jp/8661562/

※2:『STUDIO VOICE(スタジオボイス)』2008年07月号 特集:本は消えない!
http://www.studiovoice.jp/studio-voice/back-issue/2008/07/

※3:『honeyee.mag(ハニマグ)』vol.5 “PRODUCT”
http://www.honeyee.com/news/2008/fashion/132/index.html

※4:『ecocolo(エココロ)』No.28「週末美人旅」
http://www.ecocolo.com/editorial/modules/pukiwiki/514.html

※5:『週刊東洋経済』2008 6/21 「最強の読書術」
http://www.toyokeizai.co.jp/mag/toyo/2008/0621/index.html

※6:honnobutai -β 本の舞台をマッピング
http://honnobutai.org

※7:「ぼくたちが本と出会うときのこと」第28回:ブック検索に大賛成する
http://uchnm.exblog.jp/7186469/
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by uchnm | 2008-06-26 14:17 | 本と本屋
第36回:現代美術が本をプロダクトとして浮き彫りにする
 八丁堀のOtto Mainzheim Galleryでの月1回のトークショーシリーズ「ぼくたちと本とが変わるときの話」(※1)も、第3回目を迎えた。第1回目、第2回目と、いわゆる出版業界に生業として携わっている人たちをゲストに迎えてきたけれど、今回は本を素材として美術作品をつくるアーティスト、飯田竜太(※2)くんと施井泰平(※3)くんの2人を迎えた。

 2人の作品については、この連載で以前に紹介したこともあるし、ネット上にたくさんの情報があるのでご興味のある人はぜひ調べて検索していただけるといいなと思うけれど、ぼくらは3人で「森」という名前の3人展をやったことがあり、その後、そのまま「森」という3人組のアーティストユニットとして不定期で活動している。

 そもそもの出会いは、ぼくが友人に泰平くんを紹介されたときに、彼が「文庫本のカバーのみを譲ってもらう方法はないか」という話をしていたことにはじまる。彼のもっとも有名な作品シリーズは、文庫本のカバーの背表紙の部分を使った平面作品で、その作品のために大量の古本を購入して、中身のカバーなしの文庫本は本好きの人たちを集めて無料で配ったりしていたからだ。

 そしてそのほんの2週間後くらいにgrafがやっているgmというギャラリーの展示に呼ばれて大阪に行ったときに、同時期に展示をしていた飯田くんと知り合った。飯田くんの作品の中には文庫本のページをカッターで彫っていくシリーズがあり、そこでなんと「中身だけが必要で、カバーとかは捨てちゃうんだよね」という話を聞く。こんな偶然ってあるものか、と、その場で泰平くんに電話し、それで東京に帰った後、そのまま3ヵ月後に展示をやることになるのである。つまり2人はそれぞれの作品製作にあたって、素材をシェアできる仲なのだ。

 トークではまず前半に、この結成のエピソード、そしてそれぞれの作品などを一通り紹介し、そして後半は、そのふたりが本をモチーフに選んでいる理由は何なのか、というところからスタートした。泰平くんは「インターネット時代の現代美術作品」ということを強く意識していて、本に書かれたものはウェブサイトでいうところのソースコードのようなもので、それをどうブラウジングするかは読み手が頭の中で視覚化したりして理解しているものであり、そういった情報の集積であるという点で、本に何か象徴的なものを感じたのだという。また、その作品を制作し発表する過程で、本好きの人たちが「カバーを切るな」と怒ったり、中身は全く損なわれないのにカバーを手放すことを嫌がるのにあらためて気がつき、そのプロダクトとしての特殊性も意識するようになった。

 一方の飯田くんは、本の中身を読み手同士が共有する部分の「危うさ」を前提として作品をつくっているという。情報を共有することで安心感が生まれそこに社会が生まれるということ、そしてその情報の理解のズレによって人間や社会に「危うさ」が生まれるという観点から、本が現代を象徴していると感じた。そこにもともと持っていた彫刻の手法を導入したという。いわゆる彫刻家は木や鉄といった素材に対してそこでいう「危うさ」のような特殊な感情は持たず、自分のイメージを表現するための素材としてそれを捕らえているが、飯田くんはあえてそういう意識を彫刻に導入することで、作家自体の頭の中のイメージも本当は「危うい」ということも表現しようとしている。

 そして話題は、切るときの「罪悪感」に移る。飯田くんは当初強い罪悪感を感じたというが、緻密に制作を重ね、技術が向上していくにつれ、それがだんだんと達成感に変わっていったという。その「切る罪悪感」と、泰平くんが話した「カバーをあげられない」という感覚は近いもので、本にはそういった、普通のプロダクトにはない特別な感情が付随している。この一種の魔力は、「本を切っちゃうの?」という違和感が、特に本好きのひとに限らず、誰にでもあるというところにその特殊性がある。

 他に印象的だったのは、それぞれが個人的に読む本について、飯田くんは本屋で立ち読みしてからでないと本を買わず、できれば帯などの宣伝文句も自分の買うときの判断がぶれるからないほうがいいと言うのに対し、泰平くんがアマゾンでどんどん本を買ってしまうと言うことである。それはとても興味深いことに、それぞれの作品に対する考え方とぴったりと呼応している。自分が作品の素材として使う本に対しては、飯田くんは、自分がカットする本はなるべく読むのに対し、泰平くんは、観る人も本棚のように見えて開くことはできないという作品の性質上、あえて自分も必ず読まないようにしているというのである。

  その後もぼくが過去に企画した美容師の展示の話や18世紀イギリスのチャップ・ブックの話、飯田君のカットする本の新旧による違いの話、そしてこれは今度また話題にしたいけれど、第1回に出た「断裁前の書籍を引き取る団体」を具体的に進めていく話など、一貫して「本というプロダクト」の特殊性について話をしていたように思う。デジタルのテキストコンテンツがこれだけ流通するようになった今、本がよりプロダクトとしての強度を強めていかなければならないのは必然だ。同時代的にこういった作品をつくるアーティストがいるということが、何よりそのことを証明しているといえるだろう。


※1:MUSEUM OF TRAVEL
http://mot8.exblog.jp/

※2:飯田竜太
http://www.ryutaiida.com/

※3:施井泰平
http://www.taihei.org/

※「ぼくたちと本とが変わるときの話」は第3回でひと区切りしましたが、第4回以降の開催をただいま準備中です。また告知させていただきますので、どうぞお楽しみに。
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by uchnm | 2008-05-26 10:32 | 本と本屋
第35回:本をどう作り、どう売るのかという終わらない話
 なんだかあらためて言うのも変だけれど、いまの日本はそんなに景気のいいものではない。少なくとも本に関わる仕事をしている人で「最近すごく景気がいいよ」という人が少数派であることは、残念ながらおそらく間違いないだろう。インターネットが生まれ携帯電話が育ち、人もコンテンツも変わった。いつか遠くの話ではなく、すでにここまでやってきていて、はじまってしまっている未来、本をどう作り、どう売るのか。誰もが、その時代の変わり目が来ていると感じている。

 八丁堀のOtto Mainzheim Galleryでの月1回のトークショーシリーズ「ぼくたちと本とが変わるときの話」(※1)の第2回目には、取次大手である日販にいながら、「経営戦略室デジタルコンテンツチーム・プロデューサー」という肩書きで、携帯コンテンツの配信を行っている常盤敬介くんと、「出版プロデュース」という耳慣れないビジネスを手がけているエリエス・ブック・コンサルティング(※2)という会社に勤める古屋荘太くんの2人をゲストに呼んだ。彼らはどちらも、本や出版にまつわるその「時代の変わり目」に呼応して生まれた比較的新しいジャンルの仕事で生計を立てていて、比較的景気がいい。そしてぼくらは偶然にも、3人ともまったくの同学年なのだ。

 常盤くんのところで特に好調なのは、いわゆるボーイズラブのコミックだという。携帯コンテンツというとなぜか電車などの移動中に楽しむものというイメージがあるが、実際は寝る前の既にベッドに入った時間によく読まれているそうだ。本は夜、部屋の電気を消すと読めないが、携帯は真っ暗な状態でもバックライトで読める。これらのコンテンツは女性を中心に、結構な数売れているらしい。

 古屋くんのところは主にいわゆるビジネス書のプロデュースを行う会社で、これから著者になろうとする人から既に何冊も本を書いている人まで、その著者のブランド構築から出版戦略、マーケティングまでをトータルで行い、同時に出版社への企画・PR・マーケティングのアドバイス・支援も行う。社長の土井英司氏はAmazon.co.jpの立ち上げに参画した方で、有名なビジネス書のメールマガジン『ビジネスブックマラソン』(※3)の著者でもある。

 最初に挙がった印象的なトピックは、「本はどんどんわかりやすくなっている」ということ。昔から入門書というカテゴリは存在するけれど、それらはいかに実践的にすぐ使える知識を効率的にわかりやすく伝えるか、というベクトルにどんどん向かっている。入門書としてのクオリティが上がっていくのはいいけれど、その先に関連するテーマのよりアカデミックな本があるというようなとき、そこに読者はたどり着こうとしないし、たどり着きやすいようになっていない。例えばAmazonの「この商品を買った人はこんな商品も買っています」にその本が出てこない。なんとなく「雲」のようなものは見えるけれど、登るべき「山」が見えないのだ。「この本を読んだ人は次この本を読んだらいいよ」という「山」をつくることを人的にやっていかない限り、いずれわかりやすい本ばかりが棚をすべて占領していくことになってしまう。

 次に出た話は「本はどんどんモノになっていく」ということ。いかに売り場でプロダクトとしての魅力を放つかということが大きな課題になっていくだろう、という話から、日本経営合理化協会出版局(※4)の豪華な高額ビジネス書の話題や、映画のように製作委員会方式をとり、書店、取次、出版社、編プロその他で共同して本づくりをしていくのはどうか、という話などに発展した。ぼくがアパレルとのコラボレーションでいま進めている、別装本のプロジェクトの話もした。

 最後に話したのは「書店という枠組みがもはや機能しなくなっているのではないか」ということ。セレクト系の書店に行くとき、ぼくたちはすでに従来の書店に行くのとは違う感覚でその店に向かっている。書店という枠組みの中で本がセレクトされているというタイプのお店には限界があって、ぼくらはこれから本にまつわる体験ごとコーディネイトしていかなければいけない。本屋でないところで本を売ること、本屋と呼ばれるところで本でないものを売ること。どちらも既にはじまっているけれど、そこにはまだまだ可能性があるし、既にある膨大なコンテンツをどう見せていくのかというところにはまだまだ専門家が足りない。

 ぼくたちの話はいろいろな方向に飛んでいったけれど、「本をどう作り、どう売るのか」という話に終始した。上の世代の人たちに今までのやり方を教わりながら、ぼくたちの世代がどうそれをアレンジしていくのか。とても2時間でカタがつくような話ではないし、まだまだ先は長そうだ。

※1:MUSEUM OF TRAVEL
http://mot8.exblog.jp/

※2:エリエス・ブック・コンサルティング
http://eliesbook.co.jp/

※3:ビジネスブックマラソン
http://eliesbook.co.jp/bbm

※4:日本経営合理化協会出版局
http://www.jmca.net/book.html
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by uchnm | 2008-04-25 00:00 | 本と本屋
第34回:インターネット時代の人文書のこと
八丁堀のOtto Mainzheim Galleryで、勝手にこの連載と姉妹っぽいタイトルをつけた月1回のトークショーシリーズ、「ぼくたちと本とが変わるときの話」(※1)をはじめた。

「本は、いつか本当になくなってしまうのか?ぼくは、決してなくなりはしないけれど、既に変わりはじめているし、きっともっと変わっていくと思っています。『ぼくたちと本とが変わるときの話』は、本を中心に、広くメディアとコンテンツが変わっていく様について、毎回ジャンルの異なるゲストを招いて話をするシリーズです。」なんとも曖昧なこういう説明文をつけさせていただき、初回の3月5日は、月曜社の小林浩氏(※2)をゲストに迎えた。

前半は「人文書とデジタルコンテンツ」をテーマに、ぼくから小林氏に伺いたいこととして「ケータイ小説がこれだけ流行している今、ケータイ人文書はなぜないのか」「もし本屋から人文書がなくなってしまうとしたら、人文学そのものがなくなってしまうのではないか」というような問いを掲げることからスタートした。

「書く場所の不在」を訴える人々が近年顕著に増え、『批評空間』(※3)の終刊以降、現代思想系の雑誌の新創刊の話がいたるところで起こっているという。しかし多くの人にその思想が伝播するということを考えたとき、紙よりもインターネットのほうが色々な戦略が立てられるのではないか。学会の紀要などの、紙ベースでの媒体に書くことで初めて成果として認められるという慣習がアカデミズム内部で色濃く残っているのが、「書く場所」を広げていくことの障害になっているのではないか。

そんななか、自ら物販も行うサイトやCD-ROMでの発表などを積極的に行う東浩紀氏(※4)の存在やパブリック・ジャーナリストの存在、最近だと「文化系トークラジオLife」(※5)の影響力が書店でも大きくなってきていることなど、デジタルデータとしての人文コンテンツの流通は少しずつ広がってきてもいる。

次に、ちょうどタイムリーだったmixiの規約改訂(※6)に関する話題から、著作権の問題がこれだけシビアになったのもインターネットの出現以降であるということ、復刊が待ち望まれる丹生谷貴志『光の国』のこと、コピーレフトされたジジェクの『いまだ妖怪は徘徊している』のことなどに触れた。特に販売部数の多くない人文系の書籍において印税で生活できる著者が多くない以上、クリエイティヴ・コモンズ・ライセンス(※7)などを利用して広く伝播させることのほうが、価値があるとも言えるのではないだろうか、という話をした。

目立った「ケータイ人文書」は今のところ存在しない。しかし既に何人もの小説家がチャレンジしているように、既に多くの著作などをもつ批評家や社会学者などの中には、多くの人に読んでもらうためのひとつのフォーマットとしての「ケータイ小説」的なアプローチを検討している人は既にいるかもしれない。「書く場所」を確保するために新しい雑誌を作ることに大きな労力を割き、結果あまり売れ行きが上がらずに数号で廃刊させてしまうよりも、そういった実験をもっと行っていくべきだし、そういった発想をする著者や編集者のつくったものを読んでみたいと思う。

そうした多様な実験が行われていくとき、仮に本屋から人文書の棚が小さくなっていったとしても、人文学そのものはなくならない。それどころか結果として、人文コンテンツへの人々の関心を喚起できれば、本屋における人文書の地位を向上させることさえ可能かもしれない。

後半は会場から、20年ほど前に浅羽通明氏の「見えない大学本舗」などがゲリラ的に書店の本に小冊子のようなものを挟み込んでいたという話を伺ったりしつつ、小林氏から「高遠本の家」(※8)や「Housing Works Used Book Cafe」(※9)を話題として提供していただき、本屋の未来の話や、断裁される本を素材に建築や美術作品をつくる可能性の話、本屋を取次主導で夜はバーにするべしという話などをさせていただいた。書籍のボツ企画案だけをまとめて公開するという、小林氏のアイデアもとても興味深く、話は尽きなかった。

こういった本や本屋の未来についての話は、例えばぼくが生まれてさえいない昔にも、その都度話されていたはずのことである。しかしコンテンツが流通するためのネットワークがこれだけ新たに普及した時代というのは今までなかったはずだ。また小林氏曰く、これほど多くの本が断裁され処分された時代というのも未だかつてなかった。まさに今、本当に変わっていかなければいけない。このトークセッションはまさにそのために、しばらく続く予定である。

※1:MUSEUM OF TRAVEL/CAMP
http://mot8.exblog.jp/

※2:ウラゲツ☆ブログ
http://urag.exblog.jp/

※3:批評空間(雑誌)
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/

※4:東浩紀
http://www.hirokiazuma.com/

※5:文化系トークラジオ Life
http://www.tbsradio.jp/life/

※6:mixi規約改定問題 「ユーザーが著作者の時代」にまた繰り返す大騒動(ITmedia)
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0803/05/news082.html

※7:「ぼくたちが本と出会うときのこと」第33回:コンテンツも、決まりも変わる
http://uchnm.exblog.jp/8184587/

※8:高遠本の家
http://www.ne.jp/asahi/bookcafe/heartland/honnoie/

※9:Housing Works Used Book Cafe
http://www.housingworks.org/usedbookcafe/


◎上記の「ぼくたちと本とが変わるときの話」、第2回やります。よろしければぜひ皆様いらしてください。
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ぼくたちと本とが変わるときの話 第2回
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内沼晋太郎(numabooks 代表/book pick orchestra 発起人)

<第2回ゲスト>
常盤敬介(日本出版販売株式会社 経営戦略室デジタルコンテンツチーム・プロデューサー)
古屋荘太(有限会社エリエス・ブック・コンサルティング、出版プロデュース事業部・出版マーケットレポート編集長)

■本は、いつか本当になくなってしまうのか?
■ぼくは、決してなくなりはしないけれど、既に変わりはじめているし、きっともっと変わっていくと思っています。
■「ぼくたちと本とが変わるときの話」は、本を中心に、広くメディアとコンテンツが変わっていく様について、毎回ジャンルの異なるゲストを招いて話をするシリーズです。
■今回はぼくと同世代で、取次大手の日販で取次でケータイコンテンツの配信を手がけている常盤氏と、出版プロデュースという比較的新しいジャンルの会社エリエス・ブック・コンサルティングに勤めている古屋氏という、いわゆる既存の出版とは異なる角度から出版業界に関わっている2人をゲストにお迎えして、あれこれ話します。

日時:2008年4月2日(水)20:00~22:00
定員:30人(予約制) 参加費:1,000円(1ドリンク付)

会場:Otto Mainzheim Gallery
http://mot8.exblog.jp/7239803/

主催:MUSEUM OF TRAVEL
http://mot8.exblog.jp/

予約方法:メールのタイトルを「キャンプ予約」とし、イベント名/氏名/メールアドレス/参加人数を明記したメールを下記のアドレスまでお送りください。24時間以内に予約確認のメールが届きます。予約をキャンセルされる場合は事前にご連絡をいただると助かります。museumoftravel(at)gmail.com ※「(at)」を「@」に変更してください。
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by uchnm | 2008-03-25 13:56 | 本と本屋


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「ぼくたちが本と出会うときのこと」は、ブックピックオーケストラ発起人、numabooks代表の内沼晋太郎が、「[本]のメルマガ」で書かせていただいている月一回の連載です。
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